富山県の製造大企業の工場勤務から社会人生活をスタートした竹田将宏さん。働く中で積もる違和感を振り払うために、一歩を踏み出し、現在は東京のITベンチャーで活躍しています。一歩を踏み出す前、そして踏み出した結果。お話からどんなことが見えてくるのでしょうか。今回は、そんな竹田さんのキャリアストーリーを聞いていきたいと思います。

古屋星斗(一般社団法人スクール・トゥ・ワーク代表理事、以下省略):
今日はよろしくお願いいたします。竹田さんのこれまで、今、これからを伺いたいと思っています。まずは「今」からですが、竹田さんは今どのようなお仕事をされていますか?

竹田将宏さん(以下敬称略):
今年の4月にZEALSという「日本をぶち上げる」をビジョンに掲げた、チャットボットを使ったマーケティングの会社にジョインさせて頂きました。ジョインして今は営業をメインで業務をしていますが、ビジョンベースドな会社なので、みんなが共通のビジョンを実現するためにがむしゃらに走っているところです。

古屋
チャットボットとは、今まさに流行りのテック企業ですね。現在の話は後程もっとお伺いするとして、これまでどのようなキャリアを送ってきたのかを伺いたいと思います。高校時代からお願いします。

「PDCAサイクル」をラグビー部で学ぶ

竹田
高校時代はほとんどの時間を部活動のラグビーに費やしていました。部活のために学校に行っていたようなものなので、授業中は疲れて寝る。夕方から夜にかけてはずっと部活動。そんな生活を繰り返していました。

なので、よくいる部活大好き少年って感じでしたね。高校は富山県にある工業高校でした。私はその高校で機械科にいました。工業高校ということもあり、男子が大半でしたので常に騒いでいる感じでした。部活に力を入れている学校だったので、周りの人も勉強よりも部活という人が多かったです。

古屋
部活大好き高校生だったんですね。竹田さんはラグビー部ではどんな部員でしたか?

竹田
ラグビー部では結構怖い存在だったかもしれません。熱くなるタイプなので先輩後輩関係なく、何でも発言していました。色々と言いすぎて時には顧問から怒られることもありました。

その時の自分はどう伝えるのが最善なのか、相手から最大限の力を引き出すにはどうすれば良いかなど、特に考えられていなかったのかもしれませんね。

古屋
部長などのリーダーのような感じだったんですか?

竹田
どうなんでしょう?今思うとそうかもしれないです(笑)。1年生の時から試合には出場してたので、先輩とか関係なく色々言えたのかもしれません。

古屋
1年生のときからチームを引っ張っていたんですね。そんなラグビー部時代に、一番印象深い出来事はなんですか?

竹田
一番印象に残っているのは1年生の時に行った遠征ですね。ラグビーは未経験で高校から始めたのですが、その遠征で初めて3年生の試合に出ました。ここの試合で色々思うことがあったんですよね。

この遠征はまだ競技を始めて3ヶ月ぐらいの時でした。そのころはルールもまともに知らないので、とりあえず先輩のプレーやプロ選手のプレーをひたすら真似することに徹底していました。

家に帰ると必ずラグビーの試合を見ていましたね。完全にラグビー一色の生活です。そこでイメージしたプレーをひたすら実践し、反省し、実践し・・・これを繰り返していました。もちろん基礎も教えてもらいながらです。

その当時は全くPDCAなど言葉も知りませんでしたが、今思うとこのやり方自体は、ビジネスにも生かせるような理にかなった練習をしていたなと思っています。だからなのか、周りよりも早く伸びたようでした。

古屋
部活でPDCAサイクルを回していたんですね。

竹田
恰好よく言えばですが(笑)。遠征の話に戻りますが、その甲斐あってかは分かりませんが、顧問の先生が競技を始めて3ヶ月の僕を3年生の試合に出してくれたのかなと思います。

ただ、試合では全然プレーの流れや自分が何をすべきかが分からなくついていけませんでした。この試合は自分のイメージしていた試合より、はるかに上回ったものだったということです。

大抵のことはイメージできれば実現させることができます。自分が、この遠征で全くついていけなかったことで、早いタイミングで自分の中のイメージを変えることができたのはその後のラグビーにかなり生きていたなと思います。

この時のこういった早いタイミングでハイレベルな経験をしてしまって自分のイメージを変えてしまうという思考は、現在にも生きているような気がしています。

 

竹田将宏さんインタビュー記事一覧

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「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した③