みなさんは子どもの頃、どんなお仕事をする人になりたかったですか?今回は、現在M&Aなどの専門コンサルタントとして活躍する土井一真さんにお話を伺います。高校卒業後、「なりたい」どころか存在すら知らなかった仕事に就いたという土井さん。どのようなきっかけがキャリアを作ってきたのでしょうか。

古屋:(インタビュワー、本法人代表理事 以下、敬称略) 
現在27歳の土井さん。専門コンサルティングファームのこれまでのキャリアのなかでたくさんの紆余曲折があったと聞きました。まずはそんな土井さんのキャリアづくりの原点を聞きたいです。

土井
自分のキャリアの原点は父にあると思っています。父は今も昔も変わらぬトップ営業マンで、元々は山一証券にいました。自主廃業した時は32歳で最年少課長でした。次世代幹部の候補だったそうです。周りの方からの人望もあったと雑誌に書いてありましたが、会社がなくなってしまいました。
しかも、自社株の返済のために600万円の借金も抱えてしまったそうです。ただ、営業マンとしてのスキルが認められたのか、住友銀行に入社して最年少課長をやったということ。更に、メリルリンチに転職したりと活躍していたそうです。プライベートバンカーの最前線で、プレイヤーとして30年間やってきた。そんな父親を子どもの頃から今も変わらずとても尊敬しています。
この父と、将来一緒に何かビジネスをやりたいなと思ったのが自分の原点だと思います。もちろん反抗期もありましたが。

古屋
とてもはっきりとしたスタートラインがあったのですね。土井さんは、どんな高校時代を過ごしていましたか?

土井
良くある話ではありますが、17歳まで勉強したことがなかったんです。僕の高校は大阪府立三島高校というところでした。高校2年生くらいになると周りが勉強し始め、僕も楽天の三木谷さんとかに憧れて、高校2年生の秋に初めて塾に通いました。起業に憧れていたんですよね。だから商業科の強い大阪市立大学や一橋大学で迷いました。最終的には一橋大学を目指して勉強しましたが、現役では不合格で浪人しました。京都で勉強していましたね。
実はその時は、自分の人生をこんな若くして決めなきゃいけないのか、と思っていました。子どもの進路を決めない教育をしている日本で、「なんも教えて貰ってないのになぜ今進路を決めなきゃいけないのか!?」と疑問に思ったんですよね。

古屋
学校はものを教わるところですが、進路選択については「何も教えて貰っていない」と思ってしまったんですね。

土井
そうなんです。そんなこんなで勉強をしていたのですが、浪人1年目の10月に突然病気になってしまいました。そのせいでいまも右耳が全く聞こえません。英語のリスニングがまったくできない。当時は若輩者だったので東大、京大、一橋、慶應以外の大学は大学じゃないと思っていて、これで自分が合格できる可能性がなくなったかと思うと腹が立ち、他大学の入学申込書を燃やしました。
3月くらいまで悶々としていまして、これから受験もせずどう生きるか全然決まっていない時に、父から「会計士というものがあるぞ。」と言われたんです。会計士は大学に行かなくてもとれる。そんなことを頭の片隅で考えながらも、酷いめまいに耳鳴りと、これが収まるまでは何もできませんでした。
浪人後すぐに資格予備校に籍を置きましたが、「僕が何かすれば両親が安心する」という一心で、自分のキャリアアップとかそういうことでは全然ありませんでした。
体調が回復していく中で、本格的に勉強し始めたのは、発病から2年弱経った20歳の7月頃、かつての同級生だった連中も、大学の3年生になりダブルスクールで通ってくる連中も増えていました。「俺と同い年の人間がいる。今頑張らないと!」と奮起して勉強だけしていました。
半年後の12月に短答式試験に合格。その後、翌年8月の論文式試験にも無事合格しました。

20歳の時。一番左手がお父様。

古屋
大学に行った自分の「あったかもしれない未来」と競争することでモチベーションを高く持ち勉強できたのかもしれませんね。就職活動はどうでしたか?

土井
就職活動はとても苦労しました。当時は世間知らず、且つ外弁慶でした。監査法人の最終面接で、「監査なんて大っ嫌い!」と言ったりとか(笑)。監査なんてやるのは、金融庁の犬だと思ったので。金融庁のつくったルールを守るだけ、仕事の性質上、過去の出来事ばかりを見ることが嫌でした。
そんな中、大手会計事務所でM&A部隊を立ち上げた方がやっているM&Aブティックに就職できました。その社長も会計士業界を憂いており、監査などではなく、自分で新規事業を始めようとしていました。私は最初の3ヶ月間は研修として、最初は記帳、税務申告、監査、事業計画策定などをしました。研修後、本格的に新規事業に携わることになり、ここでようやく同級生が社会人1年目の春を迎えている頃でした。無駄に回り道をしましたが、ようやく自分の人生は人並みに追いついたと安心した記憶があります。そしてここから、人と比較せずに、フルスピードで悔いなく社会人生活を始めることを自分に誓いました。
新規事業は当時流行っていたESCO事業とリート事業を組み合わせた省エネ事業を立ち上げ、運営していました。損益的には上手くいっていて、IPOを目指し人員を拡大していました。私はといえば、CFOとして資金調達をメインに携わっていました。20~30ほどの金融機関と日々交渉をしていました。今では珍しい、借入で資金調達をしている会社でしたね。
ただ、上記の「ベンチャーで財務責任者」の仕事に携わるなんてことは、入社時含めて僕が狙ったわけじゃないです。「何でもやります!」的なことは言っていたかもしれませんが、本気で取り組んでいたら、偶然にそうなったとしか言えないです。

古屋
最初就いたのが全然想像もしていなかったような仕事だったというのがとても面白いですね。そんな偶然のなかで、本気を出したから今があるんですね。

土井
そうですね。全く想像すらしていなかったし、高校生の頃はそんな仕事が存在しているとすら思いませんでした。その会社はIPOを目指していましたが、諸事情により社長と喧嘩別れみたいな形で辞めてしまいました。何年後かにお詫びの挨拶には行きましたが。
ベンチャーを辞めてすぐ、大手の会計系コンサルティング会社に入社しました。
転職4か月目で広島へ。そこで今の会社の社長と出会いました。この人はすごくて、20歳で大学行かずに、当時日本最年少で税理士試験に合格し、このコンサル会社では最年少役員でした。今では師匠だと思っています。その人が広島で支店長をやっていました。これも偶然の出会いですね。
もちろん、優秀な人だけに、周りにも非常に厳しく、僕もつらいこともたくさんありました。でも、前のベンチャー企業を2年4か月で辞めていたので、今回は意地でも本気で3年間は頑張ろうとまた自分に誓いました。それが評価されたのか最年少マネージャーになることができました。広島では本当に“死ぬほど”仕事をしましたね。あと、なんとなくですが、恋愛することを許されていないとも思っていて、都会のパーティーには行かずに、地方で仕事だけをしていました。今思うと変な話なんですが(笑)。
現在は、その師匠と一緒にと思い、広島で中国四国地方を基盤に置き、M&Aや事業承継、組織再編専門のコンサルティングファームを立ち上げ、日々奮闘中です。

古屋
偶然の出会いがとても大きなきっかけになりましたね。では、土井さんが今、目標としているのはどんなことですか?

土井
人生の目標としては、日本一のプライベートバンカーになることです。そして、欧米流のプライベートバンカーファームを創りたいです。数値的な目標は、預かり資産1兆円です。例えば、欧米のプライベートバンカーは3世代続くんです。つまり、父親がつくった波を子の世代で育てて、孫の世代に引き継いでいく。僕もこれをやりたいんです。そのために、社会をより良くする起業家を起業から転換期まで支えることが出来るように、今は様々な出会いを重ねながら、腕を磨いている感じです。
自分のキャリア感としては、付加価値の高さを一番大事にしています。付加価値を因数分解すると、1つに「希少性」が挙げられると思います。今はこの希少性を高めるために、どちらかというと逆張りの人生、人とは異なる人生を意識的にしています。珍しい業界×専門知識×生き方を組み合わせて、諸々掛け算して、希少性の高い職業人になっていきたいです。今は、高卒の人材×闘病経験あり×会計士×起業経験2回あり、みたいな感じですかね。あと国会議員事務所で秘書もやっていたのでそれもかな。
今はまさに本気で掛け算中なのが、「地方」です。「非東京」のカテゴリーで本気を出して、結果を出せれば人生がより一層楽しくなりそうです。

古屋
とても大きな夢ですが、土井さんのこれまでのキャリアの紆余曲折によって実現の説得力が増しているように感じます。応援しています!