古屋(インタビューワー、本法人代表理事 以下、敬称略):
今、コンサルタントとして東京で働いている奥間さんですが、その前は東京のベンチャー企業でインターンをしていて、さらにその前は大阪でとび職をやっていたと聞きました。22歳の日本人としては、異色のキャリアだと思います。地元の新聞やWEBメディアなどでも、奥間さんの経歴について取り上げた記事がアップされているのもうなずけます。
今日はそんな奥間さんの“原点”、“転機”と“悩み”を聞きたいと思っています。今、奥間さんがここにいる。その最初の引き金になった体験ってなんでしょうね。
人生を変える授業に高校で出会う
奥間:
沖縄の高校出身だったのですが、青年海外協力隊で発展途上国への支援活動をしていたスタッフが活動の様子を放課後に話をしに来たことがありました。今思えばあの課外授業で話を聞いたことが自分の人生を変えるきっかけになったと思います。
高校一年生まで本当に全く勉強をしたことがなかった僕でしたが、その話をきいてからは、「自分もこの人みたいに海外へいって社会貢献をするんだ!」と思い、それからは“英語だけ”を勉強し始めました。あの人のようになりたい。その一心で、be動詞から勉強を始めたことを覚えています。
高校三年生に上がるころ、大学に行く選択肢が自分の中にはありました。しかし、知っている先輩で大学に行っている人を見ても、毎日クラブへ行ったり、コンパをしたりと、大学に行かなくてもできることをしているだけ。ならば自分の夢の最短距離を目指そうと思い、海外の大学への留学を前提とした語学学校に通おうと決めたのです。
その学校は大阪にあったので、日ごろはオンラインで授業を受け、月に1、2度は大阪に飛行機で行っていました。今まで出たことがなかった沖縄。月に1回であってもそこから出るというのは自分にとって大きな挑戦でした。
人生最大の転機
奥間:
何か月か過ぎた頃。父の知人で大阪に居住する方が、苦労して飛行機で通学している僕のことを聞きつけ、「うちで預かっても良いが」と父に連絡をくれました。
その話を聞いた僕は、悩みました。それは、身一つで沖縄を出る、という決断でもあったためですが、最大の理由は我が家の家庭環境にありました。我が家は8人兄弟です。
上に二人の姉がいますがすでに家を出ています。自分が長男であり、弟・妹たちの面倒を見るのは自分だ、自分が家を出たら誰が5人の弟・妹の面倒を見るんだ、という気持ちがあったのです。
その時一番下はまだ、小学1年生でした。話を聞いてから数時間は本当に迷いました。でも、考えれば考えるほど今諦めたらこの先もこのまま何にも挑戦できなくなっていくだろうなという気持ちが強くなりました。
元々、考えることがそれほど得意じゃなかったんです(笑)。だから、直感的にこの強くなっていく気持ちはホンモノだろうと(笑)。
でも、人生も家族もかかっているので、セカンドオピニオンを求めることにしました。すぐに、友人たちを呼んで聞いたんです。でも聞いた時点で自分のなかでは答えは出ていましたね(笑)。
奥間:
友人たちは自分がやりたいことをやった方がいいと応援してくれました。あの夜の光景は、今でも4Kテレビのように、鮮やかに思い出すことができます。
古屋:
高校一年のとき課外授業で聞いた話へのワクワク感。一度きりの人生だし、それを追いかけてみようと思ったのですね。新天地での暮らしはどうだったのでしょうか。そしてその後留学はできたのでしょうか?
“あと残り2か月”で留学をやめる
奥間:
大阪へ行ってからは、月に一回の通学ととも下宿していた家の子どもから“とある仕事”をやってみないか、と紹介されました。それは、“とび職”でした。皆さんは鳶のしごとにどのようなイメージがあるでしょう。仕事がキツそう?上下関係が厳しそう?僕がお世話になった職場は、仕事内容は肉体労働だけに厳しいものでしたが、人に恵まれていたのもあり、皆さんがイメージされているような、過酷で厳しいだけのものではなく、とても充実したものでした。
親方もガンガン突き進むというよりは、冷静でクールな人。憧れでした。仕事が終わったあと、月に一回は大阪のまちに美味しいものを食べに連れて行ってくれたこと、特にその時に食べた焼肉の味は一生忘れないと思います。
そんななか月に1回通っていた学校では12か月の座学プログラム後に留学に行くことになっていました。座学プログラム終了があと2か月ほどに差し迫るタイミングで、海外留学するには莫大な費用が必要になるという“事実”と“自分の現実”を目の当たりにして、留学を諦めざるを得なくなりました。
入りは留学の為の資金集めの感覚で始めたとび職でしたが、その後結局丸々2年間ほど勤めることになりました。今でも親方は人生の恩人だと思っています。
一人きりの上京
古屋:
なぜ東京に来ようと思ったのですか?東京での最初の日、どんな気持ちで何を食べたか覚えていますか?(笑)
奥間:
東京に来ようと思ったのは、渋谷にある、とあるベンチャー企業の採用担当の方とTwitterで繋がったのがきっかけでした。たまたまその会社との出会いがあり、上京することになった僕ですが、先にお話したとおり、もともとは海外にいきたかったので、実は最初は、東京へいくことには全く興味がありませんでした。
大阪で人と仕事に恵まれ、それなりに楽しく過ごしていたので。でも、ふとした瞬間に自分の将来について考えることが多くなっていたのも事実でした。
そんな中で、東京へこないかという誘いを受け、本来自分がやりたかったことは何なのかを考えこむようになりました。僕にも自分の人生をこれまで自分で決めてきた、自信というか思い上がりかもしれませんが、思いがあります。自分の可能性を信じたい。一から新しい環境に飛び込んでみたいと思い、やっぱり今回も一時間ほど悩んで(笑)、上京を決意しました。
初めて東京にきたときは、テレビでしかみたことのない渋谷の街を観光したあと、インターン先の仲間たちと、想像もつかない今後の生活を楽しみにしながら、もんじゃ焼きを食べました。味は覚えていませんが・・・。
古屋:
東京でまわりに友人もおらず、どんなことに苦労していますか。
奥間:
友人がいない環境でという点では、地元沖縄を出た時と同じでしたし、スマホを使えば遠くにいる友人とも連絡がとれたのでさほど寂しくもなく、その点ではあまり苦労はしていないと思います。
あえて言うのならば、電車のない沖縄で育った僕は、東京の満員電車に苦労しています。今は千葉方面から都心に向けて通勤していますが、“沖縄時間”の自分にとっては、この電車が最大の苦労です。
自分はこれまで“考える”ことがなかったのかもしれない
古屋:
今のしごとはどのようなことをしていますか。そして大変なことは何ですか。
奥間:
今は、経営支援を行う会社のアソシエイトとして、ベンチャー企業のIPO準備支援や組織再編、経理などの事務関連など様々な事をしています。僕が、しごとをしている中で一番大変だと感じることは、“考える”ことです。
当たり前のことですが、自分は今まで本当に“考える”ことをしてきたんだろうか、といつも思います。高校生までの自分は流されるだけだったんじゃないか、と。東京に来てできたチャンスを失わないように、今の自分にできることは何かを考え続けることを常に心がけています。
一度きりの人生、挑戦しよう!
古屋:
奥間さんの長い職業人生のファーストキャリアを語って頂きました。最後に、自分たちより少し下の世代の、例えば自分の高校の後輩と真面目な話をする機会があったら、どんなことを話したいですか?
奥間:
そうですね。下の世代の方と話をするなら、「就職や進学などの大きな選択をするときには、家庭環境や学校、地元のコミュニティのしがらみなどでネガティブに迷うこともたくさんあるかもしれないけれど、一度きりの人生だから自分がしたいことに挑戦するべき」だという話をしたいですね。
僕自身は、まだまだ何も成し得てはいませんが、今までの人生では、自分で決断し、挑戦してきたからチャンスが巡ってきていると思っています。
古屋:
自分で決めたことによって、強い動機付けがされ、成功に繋がる。「自己決定理論」という考え方が心理学の世界にありますが、奥間さんが決断してきたことが今の結果に繋がっているのは間違いないと思いますよ!本日はありがとうございました。
聞き手・書き手
古屋星斗