人に言われて決めたことが一番後悔する

みなさんは“高校を中退”した人にどんなイメージがあるでしょうか。高校を中退した後、地元の和歌山でとびの仕事をしていた龍神さん。4年勤めたとびを辞め、現在は東京でweb広告の営業をしています。今回は、現在22歳の龍神さんにキャリアストーリーを伺います。

高校を中退、そして3カ月で高校卒業

古屋
龍神さんは今、東京でwebの広告営業の仕事をされていますが、中高ではどのような生徒さんでしたか?

龍神
僕は実は高校はほとんど行かずに中退しています。中学校もあんまり行ってなくて。いわゆる不良、マイルドヤンキーでしたね。でも、中学時代の同級生は7割くらいは大学に行っているんですよ。当時はあんまり自分と変わらないなと思っていたのですが。

古屋
今、大学に行っている同級生と、中学校時代はあまり差を感じなかったんですね。全然違う人生を送っている彼らを見て、何か思うことはありますか?

龍神
これまで高校を中退してから仕事をしてきたんですが、ここに来て、大学に行きたいなと思っています。高校中退した後に18歳で一瞬だけ本気で勉強していて高卒資格を取ったんです。だから大学受験はできる。なので大学で学びたい学問があれば迷わず行こうと思ってます。

古屋
面白いですね。18歳で一瞬だけ勉強したというのはどのくらい勉強したんでしょうか。

龍神
3ヶ月で合格コミットという、地元の高検塾に行きました。ですから勉強したのは3ヶ月ですね。

古屋
3ヶ月!3ヶ月で高卒資格ですから、3ヶ月で3年分の勉強をしたことになりますね。

龍神
そう言われると、そうなりますね。

古屋
話が戻りまして、高校を中退された後は、どんなことをしていましたか。

龍神
高校時代から建設現場でバイトしていたのですが、これが楽しくなって、こっちを仕事にしました。給料が良かったこともあり、和歌山県で月25~30万円だったんですよ。

高校は二学期に辞めまして、4年間建設現場で正社員として働いていました。いろんな現場に行っていたので、日々違う人と触れ合っていたんですが、仕事に厳しい人が多かったですね。なのでよく失敗して怒られてました。

ただ、仕事は大変だったのですが、給料が良かったので、その給料を毎月散財することが唯一の楽しみでした。たまに大阪とかに繰り出したりもしましたが、メインは和歌山駅前のキャバクラ。一回数万円とか使って遊びました。

古屋
地元で一回数万円はかなり目立ったでしょうね。最初のお仕事にはどんな印象が残っていますか。

龍神
現場が日ごとに変わっていたこともあり特に印象とかはあまり残ってないです。仕事の内容はとび職で、足場をつくっていく仕事。

ただ、この仕事を定年までするつもりはなく、いつか抜けようと思っていたんです。でも、本当にまわりの情報がなかったので全く何も分からなかったんです。

“自動車学校の教官”が最初のきっかけだった

※バイク運転で事故を起こした時の写真

古屋
そんな中で、最初のきっかけはなんだったんでしょうね。

龍神
今でも覚えているのは、最初の情報を教えてくれたのが自動車学校の先生だったことです。車の運転免許を取得しに自動車学校に通っていたら、30代くらいの教官に、運転している最中に雑談をしていたんです。

この中で、「中卒なんで職の選択肢の幅が狭くてどうすれば良いのか」という相談を何気なくしたんです。その時に、教官が言ったのが「高卒認定に挑戦してみたら?」ということ。

それで選択肢を広げるために高卒認定を取ったんです。その教官にも認定取得は「難しいよ」と言われたが、「逆にやってやろう」と気持ちに火がつきました。認定塾の先生にも1年は勉強しないと無理だろうと言われたが、3ヶ月でとれてちょっと嬉しかったです。

古屋
それは嬉しいですね。高卒認定取得後はどうされたのでしょうか?

龍神
医療関係の専門学校の試験を受けました。でも、筆記は受かったが面接は落ちました。やはり経歴で・・・。

そこで、貯金をかなり蓄えていたので海外行こうと思い立って、海外留学支援をやっていたハッシャダイをツイッターで知ったんです。

すぐに、DMか電話かで問い合わせました。「すぐ来れますか」と言われたので、オンラインで即答でOKして。今の環境を変えることでしか、今の自分を変えられないと思ったから即決でした。

古屋
ハッシャダイさんのインターンシップはいかがでしたか?

龍神
インターネット回線を売るインターンは結構上手くいきました。営業は仕組み化されているので、モチベーションを上げる仕組みもあり、目標がある人は契約をとれるんです。その時に、「自分、営業向いているな」と思いました。

古屋
今に繋がる、大きな発見ですね。インターンシップ参加後、どんなアクションを起こしたのでしょうか。

龍神
当時、成長意欲がとても高くて、営業スキルを極めたかったんです。新規営業をゴリゴリやって、更にBtoB営業をやりたかった。そこで、法人営業ができる会社に入りました。

法人営業は個人営業と基本はあんまり変わらなかったが、マナーはもちろん高いレベルが求められるので学び直しました。もちろん、商材への知識量もです。

今やっているのがこの仕事で、webの広告営業です。勉強はOJTがやはり一番学べますね。でも次のステップに行こうかと思っているんです。

古屋
今はまず、成長、ということですか?

龍神
一言でいうのは難しいですね。成長意欲については、実は模索している段階なんです。営業は向いていると思いますが、一生やっていくわけではないので、模索している。

できれば次は、少人数のスタートアップに行きたい。あえてのメガベンチャーも。海外もあるかも。今の仕事は上手くいっている、結構売れているのですが、もう会社には辞めるという話はしてあるんです。

「人に言われて決断するのが一番後悔する」

古屋
龍神さんのキャリアづくりは今まさに第二のスタートを切ろうとしているのですね。最後に後輩たちに伝えたいメッセージなどはありますか?

龍神
自分が模索している最中なので、そんなに偉そうなことは言えないのですが、「すべての選択を自分の意志で決めたほうがいいよ」ということですね。

人に言われて決断をするのが一番後悔します。僕の場合は中学から自分の意志で決めていることが人より多くて、例えば学校に行かないということも意思決定かもしれない。

ただ、悩んでいることもあって、自分の中のゴールの定義がまだ分からないんです。いろんな選択肢の中で最適な道を探しつづけています。

具体的な目標として、5年後27歳、600~1000万円は稼ぎたい。そしてそれ以上に稼ぎ方をこだわりたい。toCでは稼ぎたくなくて、市場で唯一の立場になっていきたい。

そういう意味では、今の仕事には満足しているがまだまだ自分の人生には満足していないですね。

古屋
まだ22歳。目標はこれからもどんどん新しく見つかり、移り変わって行くと思いますが、必ずこれまでの経験が活きてくると思います。本日はありがとうございました!

今よりも面白い環境を求めて挑戦をする

今回のインタビューは2年前に福岡から上京し、現在はサイバーエージェントの子会社である株式会社Cyber Bullで初の高卒採用された後藤竜之助さんにお話を伺いたいと思います。

木村(当団体事務局):
よろしくお願いします。早速ですが、簡単に自己紹介していただいてもよろしいでしょうか?

後藤竜之助さん(以下、敬称略):
はい、私は現在、広告媒体の運用の仕事をしています。高校時代はサッカー部に所属していたのですが、けがをしてしまってそこからはとにかく遊んでいました。高校時代に好きなことは全部やっていました。

高校卒業後は元々就職すると決めていたので、貿易会社の運送業に就職しました。五人兄弟でみんな大学に行こうとしていましたが、自分は親に迷惑をかけた分、楽をさせたいと思い、就職すると決めました。貿易会社なので、夜中の2時から朝の10時までなど不規則な就業時間の勤務でした。

木村
いろいろな会社への選択があったと思うのですが、なぜその会社を選ばれたのでしょうか?あと、会社を辞められたきっかけとかありますか?

後藤
元々その会社を選んだ理由は、給料が良かった、ただそれだけです。ですが、仕事をしていくうちにお金が全てじゃないと思うようになりました。もっと面白いことをやりたい、そんな価値観が少しずつ変わっていったのがきっかけですね。

木村
そうだったんですね、面白いことをやりたいとのことでしたが、やめた後はどんなキャリア転換をされたのでしょうか?

後藤
貿易会社を辞めた後は、訪問販売のアルバイトをやっていました。訪問販売はかなり得意だったのですが、そこで、株式会社ハッシャダイ(非大卒限定向けの有料職業会社)の社員と会い、日本一の営業マンの人としゃべる機会がありました。

話をしたハッシャダイの社員の人からも東京に来てほしいと誘いがありましたが、名前からして、めちゃくちゃ怪しいですし、福岡の地元が好きだったので話を聞いたときは行動には移しませんでした。

ですが、日本一の営業マンの話を聞き、自分より高いレベルを知ってしまったので今よりも面白い環境を求めて東京に挑戦しようと思い、ハッシャダイのヤンキーインターン(非大卒限定のインターンシップ)に参加しました。

木村
そうなんですね、出会いがきっかけとなったハッシャダイでのインターンはいかがでしたか?

後藤
最初はハッシャダイに行って営業は誰にも負ける気はしないと意気込んでいましたが、意外と周りの同期は穏やかな雰囲気でしたね。私は、研修中に表彰されるなど、負けないと意気込んだ分、しっかりと成果を残せたと思います。同期は5人いて、仲が良かったのですが、営業に対して、若干ハングリーさが欠けていると思いましたね。

木村
そうだったんですね、トップ成績を残せた要因になったハングリーさはどこから来ているのでしょうか?

後藤
一つは親に恩返しをしたいということです。高校時代は好きなことをやっていた分、かなり親に迷惑をかけたので恩返しをしたいと考えているからです。

もう一つは自分の父親の事業を大きくする。そのために自分が成長しなければならないからです。本気で成り上がりたいという気持ちはだれにも負けていなかったから、成果を出せたと思います。

木村:後藤さんのお父さんは何の事業を行われているのですか?

後藤
建築と居酒屋を経営しており、創業者でもあります。

木村
恩返しの気持ちが後藤さんのハングリーさにつながっているんですね。では、なぜ株式会社CyberBullを次のキャリアとして選んだのでしょうか?

後藤
一番の理由は自分が成長できる最高の環境だと思ったからです。なぜなら、インターネット業界の中でも大きな案件を扱っており、その大きな案件でも、若手に任せる裁量権のある社風というのが選んだ一番の理由です。

そしてもう一つの理由が、うちの社長が25歳の時に借金で5億円を抱えながらも事業を展開し、今ではそれを帳消しにして、現在も社長を続けているという話がすごく印象的に残っており、働きたいと思いました。

しかし、うちの会社は大卒しかとっておらず、面接を受けさせてもらえなかったのですが、人事の人に電話をして、直談判をして、何とか面接にこぎつけ合格しました。

木村
直談判とはすごいですね(笑)。話の節々に後藤さんのアグレッシブさが伝わってきます。
今後の後藤さんの目標などあればお聞かせください。

後藤
目標の一つ目は、父親の事業を拡大させること。そして二つ目はこの会社の必要不可欠な人材になること。

そして、毎日チャレンジをし続けることです。どんな小さなことでも大切にしています。自分は何もできない、だからこそ、マインドは失わずにプライドを捨てて挑戦し続けます!

木村
日々挑戦し続けるのは素晴らしいですね。本日はありがとうございました!

目が死んでいる人が多い日本に、衝撃を受けて 後編

今回のインタビューは世界的大企業トヨタの工場で働くも、3年で退職し、世界中を旅した後に株式会社ハッシャダイで全国の高校に講演会を開き飛び回る、三浦宗一郎さんにお話を伺いたいと思います。

前回 目が死んでいる人が多い日本に、衝撃を受けて 前編

楽しい人生にしようとすると、楽できない!

木村(当団体事務局):
世界中を旅して、いろいろな経験をされた三浦さんはなぜ、ハッシャダイに入られたのでしょうか?

三浦宗一郎さん(以下、敬称略):
旅が終わって日本に帰った時は、若者にチャンスを与えるような人になりたいと思っていて、いろいろな経営者の人に会いに行ったんですが、その時にハッシャダイの久世さんと出会ったんです。

元々、人の人生に関わる仕事をしたいと思っていたからハッシャダイは知っていて、若者を応援するとか、そういうところに共感して会いたいと思ったんです。

実際にあって哲学的なビジョンだったり、めっちゃ惹かれたんですよね。それで、その場で久世さんと話して、入社が決定しました。

木村
その場で決定とはすごいスピード感ですね。ハッシャダイに入る前と後でギャップなどはありましたか?また、どんな仕事をされているか教えてください。

三浦
ギャップは全くありませんでしたね。入る前から、とても面白そうな会社だなと思っていて、入った後でもめっちゃ面白いという気持ちが強くなりました。ちなみに今の仕事は、主に中学校、高校での講演活動と、あとはハッシャダイカフェをもっと盛り上げていろいろな人に使って貰おうということで、いろいろな企画をしています!

木村
今のお仕事はどうですか?

三浦
超楽しい!でも、大変なこともたくさんあります。なぜなら、楽しく生きようとすると楽できないからです。ハッシャダイに来て自分の力が足りていないなと思うときも常にありますし、人間関係でもすごく苦労しました。ヤンキーインターンのメンターをしている時は、人と深く関わる仕事だからこそ、苦労したことも多くありました。

でも、そういうのを全部含めて楽しいですね。大変でもそれを楽しくさせる環境があるので、一緒に頑張る仲間がいるみたいな。ヤンキーインターンの参加者からも感謝されるよりも、頑張っている姿を見るほうが楽しいんですよね。

例えば、お世話になりましたって言われるよりも、今、次のステージで活躍してる姿とか次の目標を見つけている姿をみることのほうが嬉しいです。あと、今講演をしていて、高校1年生くらいから自分の進路をしっかり考えていたら、みんな良い人生送れるんじゃないかって思っていて講演活動をしていて充実しています。

木村
まさに三浦さんが歩まれてきたchoose your life(注:ハッシャダイのキャッチフレーズ)を伝えているということですね、三浦さんの今後の人生の目標はありますか?

三浦
目標としては、常に新しいことに挑戦し続けたいと思っています。結局挑戦しろと言っても、教える側のそいつが挑戦していなかったら、心に響かないですよね。そして、旅も続けていろいろな発見もしたいと思っています。

旅のときと日本とのギャップがあって、日本人は楽しそうな人が少ないと感じていて、それを楽しくするのが、自分の挑戦。一歩踏み出す挑戦、新しい環境にチャレンジすることだと思っているから、そういう人を増やしていきたいと思っています。

カンボジアにもフィジーにも、逃げ場所がいっぱいあるから挑戦できる

木村
挑戦をすることによって、楽しさを感じるのはおっしゃる通りですね。ありがとうございます。これから挑戦する若者へのメッセージなどがあればお願いします。

三浦
世界ってめっちゃ広いっていう話をしたくて、今自分がいる場所から一歩抜け出すと抱えている悩みとか一瞬でなくなったりするんですよね。逆にずっとその場所にいたら、その悩みが自分の中でどんどん大きくなってしまうんです。

例えば、学生のときは、世界が学校と家庭しかないと感じてしまって、学校でいじめにあい、家庭が複雑だと落ち込んでしまう。

でも、世界はめちゃくちゃ広くて、どんな自分であってもぜったいに受け入れてくれる場所がどこかにあると私は思っています。そういうのを知っているっていうだけで、挑戦というハードルがすごく下がるっていうのが伝えたいことですね。

俺は今まで旅をし続けていて、いろいろな人と仲良くなって挑戦して失敗しても、たくさん助けてくれる周りがいるんだよ、カンボジアにもセーフティーネットがあってフィジーにもあってみたいな。逃げ場所がいっぱいできるからこそ、どんどん挑戦できる環境が私にはあるんですよね。

木村
様々な場所を知ったからこと、失敗を恐れずに挑戦できる。非常に素晴らしいと思います。本日は本当にありがとうございました!

目が死んでいる人が多い日本に、衝撃を受けて 前編

今回のインタビューは世界的大企業トヨタの工場で働くも、3年で退職し、世界中を旅した後に株式会社ハッシャダイで全国の高校に講演会を開き飛び回る、三浦宗一郎さんにお話を伺いたいと思います。

三浦さん:写真一番右側

高校生で感じた”なりたい大人”と“なりたくない大人”の像

木村壮馬(当団体事務局):
早速ですが、現職のハッシャダイに来られる前はトヨタの工場で働かれていたとお聞きしましたが、その当時のことをお聞かせください。

三浦宗一郎さん(以下、敬称略):
僕は、トヨタの工場で3年間働いていたんですが、その前に、トヨタの企業内高校のトヨタ工業学園に進学したのが、トヨタに入社するきっかけです。元々学校の先生になりたかったんですが、勉強が得意なわけでもありませんでしたし、経済的にも大学に行くのが難しくて。だから、トヨタ工業学園に進学しました。

トヨタ工業学園は、高校生だけど普通に働いて給料がもらえるんですよね。だから働いた期間でいえば6年間働いたことになりますね。トヨタ工業学園に入れば、お金も稼げるから将来の選択肢が増えると思って進学しました。

木村
ちなみに、働きながらの学校生活はどうでしたか?

三浦
めちゃくちゃ、特殊でした!ちなみに学校は寮生活で、夜は21時門限の朝は6時起床で、集団行動みたいなこともやって、自衛隊のような生活。でも、すごく感謝してるんですよね。よかったことは本当にたくさんあるんですけど、その中でも特にあるのは、いろんな大人に出会えたことだと思います。

トヨタ工業学園はさっきも言った通り働きながら勉強して、毎週違う職場に行くことになっていて、その職場ごとに“いろいろな大人”がいたんですよね。そこで、私の思ったことは2種類の大人がいるなと思って、「キラキラした目で仕事している人」と、「そうでない大人」。その大人たちと一緒に働くことによって早い段階からキャリアについて考えるようになりました。

自分の“なりたくない大人の像”みたいなのが見えるようになったんです。

木村
そうだったんですね。ちなみにトヨタの工場をやめたきっかけとかはありますか?

三浦
トヨタをやめた理由はもっと多くの人の価値観や人生観に触れたいと思って世界を旅することを決めたからです。もともと旅が好きで休みを使ってよく行っていたんですが、自分のやりたいことと向かい合うために旅をしていて、旅をするたびに自分の物差しが大きく変わっていったことを実感したんですよね。

カンボジア行ったときや、スペインを横断した時、人との出会いに大きなご縁を感じて、そういう感覚をすごく覚えていて。日本に帰ってきて思ったことがなぜか直感的に、「何で日本ってこんなに目が死んでいる人が多いんだろう」と思ったんですよね。

海外の友達が言ってたんですが、「嫌なら、仕事はやめたらいいじゃん」、「10年後のことは10年後に考えろ」っていう人が多くて、本当に自分物差しが大きく変わった瞬間かなって思いました。そんな、いろんな人と出会う中で自分の価値観を何度もいい意味でぶち壊されたんです。

正直、日本人なら、トヨタの工場に入れば一生安泰っていう物差しがほとんどだと思いますが、僕は世界のいろいろな価値観に触れたからこそ、今こうやってハッシャダイにいるんだと思います。

「トンガ人は寝ながら人の話を聞く」。旅の経験が今の自分の居場所を作った

木村
そうだったんですね。お話を聞いていると旅の経験が三浦さんの人生に大きな影響を与えていると感じますが、旅での一番の思い出などはありますか?

三浦
内閣府の『世界青年の船』というのに参加した時に、世界の11か国の人たちと一緒に生活する機会があったんです。そこでセミナーがあったんですが、日本だと、姿勢を正して相手の話を聞きながら相槌を打つとかが礼儀としてありますよね。でも、トンガ人が“寝転がりながら”話を聞いていてすごく印象的でした。

でも、誰もそのトンガ人には怒ることはできなくて、なぜなら、トンガではそれが当たり前だから。文化の違いを目の前で感じて、世界ってめっちゃ広いなって思った。その時に、よく日本で、自分と人とを比べて気にする人がいますが、それって本当に意味ないなって感じました。トンガ人と自分を比べても、無理だなって思って。世界を知れば知るほど、周りを気にせずに行動するようになりましたね。

「ミドルベンチャーから画家へ。理想のあり方を追求する異彩女子に迫る」

自分で考え、行動し、キャリアを切り開く若手ビジネスマンを対象に行うインタビュー連載「若者たちが作る異彩のキャリア」。
今回は、人材系ミドルベンチャーから画家への転身という異色のキャリアを歩む鈴木奈々さんをご紹介します。

多くのビジネスマンが悩む自分のあり方。その難題に彼女はどう立ち向かったのか
経験なしのフィールドでどのようにして不安を克服し、チャンスを掴みとったのか
余すところなくお伝えしたいと思います。
(インタビュアー:築嶋宏宜)

直感を信じて決めたファーストキャリア

築嶋
かなり振れ幅の大きいキャリアチェンジを行なっていますね。まずは新卒入社とその経緯、ファーストキャリアについて聴かせてください。

鈴木奈々さん(以下、敬称略):
ファーストキャリアは経営人材を紹介する人材系ミドルベンチャーに入りました。色々と考えることはありましたが、結論、自分がビビッとときたというのが入社の一番の決め手です。元来私は、「考える」というよりも「感じる」タイプ。自分がいいと思ったことを直感的に選択して行動するタイプなんです。

だからファーストキャリアを決める最終的な決め手は直感なんです。そういうこともあって、「就職活動」というのは私にとっては地獄みたいなものでした。

築嶋
地獄ですか。具体的にはどういったことでしょう?

鈴木
考え方が強制されるんですよ。いわゆるゴール思考、目的思考という、ゴールを規定して、そこから逆算的に次の選択を決めるというものなのですが、私はどうにもこの考え方が苦手でした。

自分がいいと思ったことを実行する。その上で新しいことが起こり、またその都度いいと思ったことを直感的に判断する、私はそういった積立型の思考の方が性に合っており、ずっとそういう意思決定をしてきました。しかし就職活動、というステージに立たされ、強制的に考え方と思考回路の変更を迫られたのは苦痛以外の何物でもありませんでしたね。

築嶋
確かに就職活動ではそういったフシがありますね。そういった苦痛を感じながら、どうやってファーストキャリアを決定したのでしょうか?

鈴木
苦しみながら、それでも最終的には、その制約の中での直感を信じて決めました。

経営者に惹かれた。ということと、社員が全員自分のあり方に則って仕事をしていた、ということの2点です。就職してからはがむしゃらに働きましたよ。身体を壊すぐらいに。

自己裁量での仕事を奨励してくれる会社ではありましたが、自分の裁量で決定する部分に行きつく間もなく、必須業務に追われる日々。自分の能力不足のせいですが、結果を出そうにも、出し方がわからない。能力不足を補なうために、行動量と時間量で勝負しようと決め、朝6時半から23時まで働き続けました。

結果、体力的な限界と、自分の思考が縛られることでの精神的な限界が祟って、救急車で搬送されました。これまで信じて生きてきた「直感」というものが、この時はがんじがらめに縛られ、何も浮かんでこなくなっていました。本当に苦痛でしたね。涙が出るほどに。

この時、自分の根本的なあり方を押し殺して生きていたことに気づいたんです。

つらい過去から生まれた自分の在り方

築嶋
大変辛い経験でしたね。お話しいただきありがとうございます。
、、、さて、先ほどからあり方というワードがよく出てきますが、鈴木さんにとって、あるべきあり方とはどういったものなのでしょうか?

鈴木
私にとってのあり方は「直感」と「感謝」です。その場その場で、良いと思ったことを判断していく。理屈じゃなく自分が確信でき、すべての結果に責任を持てる選択をすること。その上で生じた結果はいい悪いに限らず、全て感謝する。これが私の生き方であり、あり方です。

築嶋
どうしてそのようなあり方に行き着いたのでしょうか?

鈴木
中学の時の原体験が非常に大きいです。暗い話にはなってしまいますが、この時期は私にとって暗黒期でした。外科手術の後遺症が残り、学校ではいじめられ、家庭は崩壊。自分のいる場所がなく、どうしても自己肯定感がもていない状況でした。そんなとき、おばあちゃんに言われたんです。

「辛い時は試練。いい時は感謝しなさい」

心の奥底に深く突き刺さりました。

その時から、どんな状況でも自分の置かれた環境に、そして関わる人に、感謝していくことを決めたんです。それからというもの、自分の生活に変化が現れました。いろんな人と打ち解けられるようになり、感謝でご縁が繋がっていくようになったんです。

そこからです。私がこのあり方を大切にしようと思ったのは。

築嶋
なるほど。とても強い原体験です。それが抑圧されていたとなると、相当辛い経験でしたね。

鈴木
そうなんです。救急車で搬送されてからは療養期間をとったのですが、どうにも、本来の自分のあり方を取り戻すことはできませんでした。

築嶋
それはそうですよね。初めて出た社会で、今までの依り代だった生き方が否定されたのですから。

鈴木
そんな時、尊敬していた自社の経営者から、今の恩師を紹介してもらったんです。その方は自分で会社をやっている経営者でした。ご多忙にも関わらず、お話を聞いてくださって、対話を通して、忘れていた私の大切な価値観、あり方を思い出させてくれたんです。

築嶋
ひょっとして、その方が鈴木さんの画家への転向のカギを握っているのですか?

鈴木
はい。ふとした時に、その恩師に、以前絵を描いていたことを話したんです。そして、過去に描いた絵を見せたら、こう言ったんです。

「今日からお前画家や!俺が買うから。なんの絵でもいいから描いてこい!」

耳を疑いました。でもどうやら本気みたいなんです。この時からです。私の画家人生が始まったのは。

鈴木さん作品

築嶋
すごい恩師ですね、、!全く違う領域、やったこともないこと。不安はなかったんですか?

鈴木
もちろんありましたよ。最初の会社を辞める辞めないの話もありましたから、ストレスで6キロ痩せました。でも当初は画家で生活していこうなんて思っていなかったので、とりあえずこれだけ描いてみようって感じで描いたんです。

築嶋
何を描いたんですか?

鈴木
自宅の梅の木を描きました。本当に、ただなんとなく、梅の木を描いたんです。言語化ができない何かに惹かれて、描いてみようと思いました。恩師に頼まれた手前、退路がなかったのもありますけどね。(笑)

描き上げた後、恩師にお披露目会の場を設けてもらいました。そこには、これまでの自分では到底会えないようなすごい経営者がたくさんいらっしゃって、本当に緊張しました。

けど、決めていたんです。もう、社会でまことしやかに言われている「論理」に縛られながら話すのはやめようって。だから、ぐちゃぐちゃになりながら、自分の感じた何かや、なんでこの絵を描いたのか、どういう想いで描いたのかを説明しました。自分だけの言葉で、自分だけの想いを語ったんです。多分、聞いていた人は何を言っているかほとんど理解してなかったように思います(笑)。

それでも、大絶賛してもらいました。この時に参加していた方々に次々と予約をもらって、今の画家としての生活があるんです。これが、自分を縛っていた社会のしがらみから解放された瞬間で、本来の自分のあり方に自信を取り戻した瞬間でもあります。

鈴木さん作品

築嶋
「直感」と「感謝」ですね。

鈴木
はい。店舗に飾る絵の依頼や、家に飾る絵の依頼などもいただくのですが、その人が一番喜ぶ形で、一番いいと思ったことを、直感に従って形にしています。だから会う人には、名刺がわりに絵なんかもプレゼントしているんです。出会った人には必ず感謝。出会ったこと自体に感謝。自分のあり方に純粋に生きているので、なんの不安も、心配も、ストレスもありません。今の人生に納得していますし、自分のあり方が正しいからこその今だと確信しています。

築嶋
本当に素晴らしいですね。ありがとうございます。それでは最後にメッセージをお願いします。

鈴木
はい。メッセージはたった一つです。あり方を大切にしてください。ということ。社会に出た後は、数値、目標、タスク、ノルマなんてことが、本当に「正」としてまことしやかに語られています。しかし、それより大切なのは、あり方だと思います。自分がどう言った人間で、どういう風に生きていきたいのか、それを突き詰めて欲しいと思います。

最初は社会から外れた意思決定をすることに、悩むこと、心配すること、怖いことなど、たくさんあると思います。でもあなたのその素敵なあり方に触れた時、必ず共感し、賛同してくれる人が出てきます。だから、自分を曲げずに、強く生きていって欲しいと感じます。

築嶋
ありがとうございます!画家としてのこれからの活躍に期待です!本当にありがとうございました!

カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい 後編

現在、東京電力の人材企画部門で活躍している佐藤彰さん。大手電力会社という”お堅い企業”に所属されていますが、実はいくつもの社会人コミュニティを創設し、社外にも幅広いネットワークを持つ人材でもあります。さてそんな佐藤さんは高校卒業後、東京電力に入りました。どんなキャリアを歩んできたのでしょうか。なぜ安定した企業を飛び出て、活動しようと思ったのでしょうか。今回はインタビュー後編になります。

古屋
その行動力はどこからくるのでしょうか。

佐藤
仕事観はとにかくまず行動してみる、小さいことからでいい。自分もこれまでの会社のキャリアのなかで着々と視野が広がってきただけなんです。

窓口対応の時は目の前の一人のお客様、総務にいたころは事業所にいる社員約1,300人、本社労務人事になってからは約3万人の全社員、さらには家族も含めれば20万人の人生を背負う。

このようにはじめは小さなことから少しずつ広がり、どんどんかかわる人が増えています。

古屋
ここまでお仕事のキャリアを伺いましたが、一方で佐藤さんはいろいろな社外活動をされていらっしゃいますよね。これはきっかけはあったのでしょうか。

佐藤
働き方改革の担当となってから様々な研修や講演を聞きに行く機会が増えました。その時に、ユニリーバの島田さんの勤務制度(WAA!)説明会の最初の数分、島田さんからの「働き方改革は生き方改革」の一言、これが大きなきっかけですね。

それまでは、自分は「東電の人」だった。この会社をどのようによくしていくかでした。でもその言葉の瞬間から「東電」から「人生」に視野がぱっと開けました。

いまから2年と少しくらい前ですね。その後すぐにその方のやっているコミュニティに参加しました。そこで一番驚いたのは、こういう取組に、社外の人がこんなに集まるんだ、という気づきですね。

そのコミュニティに参加して9か月ほど経過したときに、ある月のセッションで自分の取組をプレゼンする機会をいただきました。実は社外の方に、フリーの場で「自分の名前」でプレゼンしたのは始めてだったんです。

その経験自体も貴重だったのですが、さらに参加された方から多くの共感をいただき、自分のやってきたことが「会社」という枠内だけでなく社会にも評価されるんだ、と感じれてすごくうれしかったですね。

そして、その時に一緒にプレゼンしていた方と、その後の名刺交換の時に「一緒に異業種交流会しましょう」と軽い感じで話がすすみ、それが16社以上200名規模の大交流会に。

他社と何かするのって難しいことだと思ってましたが、名刺交換の軽いやり取りがこんなに素敵なアクションに結び付くことは衝撃でしたね。こんな簡単に会社と会社が手をつなげるんだなぁとすごく感動しました。

そこから私自身もそうしたきっかけを作っていきたいと昨年からコミュニティを自ら立ち上げるようになり、気づいたら5つのコミュニティを立ち上げていて、全部足すと総勢800人くらいになっています。

古屋
他社の説明会を聞いた、というその一回の小さなきっかけが、佐藤さんの膨らみきったキャリアの風船を爆発させたんですね。これからのキャリアづくりについてはどうしていきたいですか?

佐藤
視野が人生に広がったことで、その分キャリアに関する悩みも大きくなりますよね(笑)。

きっとこのままいっても、会社で充実したキャリアパスが用意され、高卒のロールモデルとして学歴関係なく上がっていけるんだと、そんな全社員に希望を与える存在になる例を作れるかもしれないし、きっと会社はそうしたいんだろうなと感じていました。

でも自分は、カーナビが大通りを示してくると、もっといいショートカットルートがあるんじゃないかと、自分で見つけたナナメの細い道をいきたくなっちゃうんです(笑)。

あとは、一度きりの人生「ああしてればよかった」なんてつまらないことを言って死にたくはない。知りたい、やってみたいという好奇心があれば行ってみたい、そんな気持ちからこの春に転職するということを決意しました。

もしかしたらいったん落ち込むかもしれない。でもそこから上がっていくのが自分だと思っています。大体今までも新しいことばかりで、最初の半年は毎回地獄。いったん沈んでそこからグーっと盛り上がってそしてまた新しいところにいってまたへこむ。

心電図みたいですね。新しいことをすることでやはり谷に落ちていくという経験がでてきます。でもこの谷を経験しないと、この谷に恐怖で足がすくむということになった瞬間、惰性になっていくという恐怖感があります。

だから、あえて安定を手放した。もしこれで思いっきりへこむことになってもそれもまぁいいかと。食事だってたまに辛い物や苦い物、酸っぱい物を食べたくなるじゃないですか。

そういったものが食事を充実させる。人生もそういったスパイスがあるから充実するものだと思っています。

古屋
16年ご活躍された環境を自ら手放し、どんなフィールドでチャレンジする予定ですか。

佐藤:数万人の大企業の回し方というのをやってきましたので、今度は数十人・数百人の会社に行きたいです。自分は東電のキャリアにおいて、学歴も何もない中で人を巻き込むために大切にしてきた言葉があります。

それは踊る大捜査線の和久さんの「正しいことしたけりゃ偉くなれ」という言葉。どんなに理想を語ろうと、人を動かすにはそれを信じさせるに足る実績が必要。

なので、今回のキャリアチェンジでは、今までの枠の中から飛び出してチャレンジしたいですね。「規模が大きい・仕組みは整備済み・大きな案件をじっくり」から、「規模が小さいからスピード感重視・仕組みは未整備のカオス」みたいな経験ができるベンチャーなどで自分がどんな価値を作れるのか挑戦し、大企業のキャリア、ベンチャーのキャリアの両面からしっかりと実績を積んで信頼されるような人になり、もっと多くの方を巻き込んでいけるような、頼りにされるような存在になっていきたいと思ってます。

自分は3年後・4年後の先を考えずに来ました。数年後の目標を立てるのはいいですけど、どんな目標にしようかと考えて落ち込んでたり、目標に近づかないからへこんだりって方多くないですか?

そんな落ち込むようなことになる目標って・・・という思いもあり。それに数年後どうなっているか分からないし、生きているかすら分からない。年功序列も大っ嫌い。

数年後にキャリアアップするからって、そんな抗えない年次で可能性にキャップをはめられて、その間死んじゃったら何一つそのキャリアアップの計画は意味がない。

生きているのは過去でも未来でもなく、「今この瞬間だけ」。今この瞬間をワクワクすることが大事でその連続が日々となる。だから先のことは自分にも分からないんです。

5年後の佐藤はどうなっているか?この日々が続いていったらどんな自分になっているんでしょうね。それは自分自身が一番楽しみにしています(笑)。

古屋
高校でのアルバイト、窓口対応、総務、工事管理、事故対応、原子力損害賠償、人事、そして社外のコミュニティ。佐藤さんが駆け抜けたキャリアのひとつひとつがあって、次のキャリアを輝かせていますね。

未来のキャリアもわくわくするようなものになることを応援しています!

 

佐藤彰さんインタビュー記事一覧

『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』中編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』後編