今回は、長野県出身の19歳、木村壮馬さんにお話を伺います。野球一筋だった高校時代、地元の大手包装資材メーカーへの就職を経て、現在は東京でコンサルタントとしてのキャリアを歩んでいます。どんな選択が木村さんのキャリアをつくってきたのでしょうか。
部活漬けの高校時代
古屋(インタビューワー、本法人代表理事 以下、敬称略):
木村さんはまだ19歳ということで飲みの席でお酒が飲めないのに、バリバリ仕事をしているということでとても違和感があります(笑)。
24歳まで学校に行っていた私からすると「凄い」の一言ですし、長野県から上京してひとりで働いているというのもすごいのですが、学生時代はどんな学生さんでしたか?
木村:
中学、高校では部活漬けでした。今思えば、結構部活時代の経験がいきています。そのおかげもあって、まわりの人に感謝して精一杯がんばろうとし続ける人間形成がされてきたのかもしれません。
野球部を通じて培われたそういった心のためか、前職を辞める際にも親に対して申し訳ない、という気持ちがありました。転職=マイナスというか。中途半端な人間になっているんじゃないかなと。この働き方だと、人間的にも成長できないしと、そういった気持ちは当時はありましたね。
古屋:
野球部の時の経験が進路選択をする際にも活きているのですね。部活は楽しかったですか?
木村:
はい。部活をやっていた時は自分に自信がありました。根拠がない自信でしたが(笑)。なんというか、思考力は負けない。能動的に考えるという力、常に求め続けていないとポジションが得られませんので。僕の通っていた商業高校では野球部は部員が100人ほどいました。
高校入学して真っ先に野球部に入りましたが、入った瞬間に分かったのは、僕の中学時代の野球のレベルは低かった、ということ。高校では3軍レベルでした。その高校では、なかには一打席もバッターボックスに立てず退部する人もいる。でも、僕はここで諦めてやめたらダメだろうと思って必死でした。
でも結局、2軍止まりでした。ただ、当時の部活の仲間は向上心が強く、生きる糧になっていると思います。また、母子家庭だったので学費とかも出してくれるなか、少なくとも野球くらいは最後まで頑張らないとという気持ちもありました。
野球についてもう少しだけお話をすると、僕の実力自体は全く叶う気はしませんでした。高校1年生の時には、自分の学年は44人も集まりました。地元のオールスター軍団。そんななかでレギュラーを取れるわけもありませんでしたが、野球部で学んだのは人間の基礎的な部分だったと思います。忍耐力、社会貢献、周りとどうつきあっていくのかなど学んだと思います。
古屋:
日本の部活動は国際的にみても学校単位でやっていることに特徴があり、また多くの子どもが取り組んでいるということでとても大事な教育の場になっていると言われていますね。そんな野球部で思い出深いことはありますか?
木村:
監督のことはいまだにリスペクトしています。理不尽でもあったけど、未だに覚えているのは、その監督は精神論が好きな方で、「眉毛は人格、瞳は力」という言葉をよく言っていました。眉毛を細くする高校生が多いので、そうするなということ。細くすると試合に出さないぞということでもありましたが、結局眉毛が細くても実力があれば試合には出し続けていたので理不尽でした(笑)。でも未だに覚えていられる名言のような言葉をたくさん聞きましたし、意志の力を感じました。
古屋:
木村さんの原点となった野球部での経験を経て、18歳で就職を決めますね。大手包装資材メーカーに決めたとのことですが、それはなぜでしたか?
限られた選択肢のなかでつかんだ、ファーストキャリア
木村:
大手包装資材メーカーに決めたのは、選択肢が限られていたということが大きいと思います。「給料」、「休みの多さ」、などの条件重視で選びました。
まず、校内選考があって、人気がある企業だと成績順になってしまいます。成績で落ちて面接も受けられないのは避けたかったので、自分の成績と条件との妥協点で選びました。そうしたら、第一希望で書いたのが自分しかいなくて、運よく学校推薦を得ることができました。
その前職の会社も毎年自分の高校からとってくれていたらしく、一次、二次面接を普通にやって、面接では自分のことを話していたら普通に入れました。
ちなみに、校内選考の際には第三希望まで出しましたが、全て工場勤務の仕事で出しました。事務職にいきたいなとも思っていましたが、男の事務職の求人がそもそも少ないんです。給料も基本給13万円とか14万円。事務職は楽そうで人気があるのですが選択肢がほとんどないんですね。
結局、第二希望が食品製造、第三希望が組立・溶接の工場。この3つを選ぶ際には、ハローワークにある200~300社くらいの高卒向けの求人票から選びました。この求人票は全部紙なんです。2つのファイルに入っていて、ひとつは県のハローワークがまとめている求人票。もうひとつは学校が企業から推薦枠を貰っている求人票。先生が、推薦枠が実際にあるかどうかを教えてくれました。
進路指導の先生は若い先生でしたが、色々なことを教えてくれました。
自分が一番覚えているのは、「自分が一番重要だと思うことを軸にして、どれを捨てていくか」が進路選択だということ。何を捨てるか、なんて考えたことが無かったので逆に新鮮で今でも覚えています。大手包装資材メーカーに入った時は、非日常的だったので楽しかったです。
研修期間が終わって実際に製造職で入ると、まず工場が40度近くになるのでこれがきつかったです。正直、これは仕事を続けていくのは難しいなと思いました。あと、会社の雰囲気が嫌でした。人は本当にいいのですが。働いている人の年齢層が完全に二極化していて、40代の中途社員の方々と高卒新卒から26歳までの若手でした。この中間が全くいないんです。何でも理由を聞いたら、全国の工場でも離職率が最も高い工場だからとのこと。
人間関係にはとても恵まれたものの、アナログな労働環境で、肉体的につらい面もありました。
3年後の自分が想像できず、1年弱で退職
古屋:
最初の仕事や最初の上司はその後の職業人生に大きな影響を与えると言われます。これは勉強になった、良かった、といったことはありましたか?
木村:
良かったことは全くありません(笑)。給料がいいといってもいっぱい残業して浮き出た金額なだけで、そこで自慢してもしょうもないなと。もっと稼ぐなら違う商売の方がいいなとも思いました。
やめるきっかけになったのは、3年ほどしたら部署異動を願い出ようと自分のなかで将来のキャリアを考えていたんですが、よくよく考えたら3年もこの仕事を続ける価値はないなと思ったんですね。3年間この仕事を続ける自分が想像できなくて。
そのころ、12月頃でしたね。遊びの用事で東京にいった時、高校時代の友達が自分なりの“選択肢”を見つけていたんです。これがとてもキラキラしてみえました。今の工場で働き続けてもその工場で働くスキルは上がるが、社会で生きていくスキルは上がらないなと思ったんです。
その友達は、同じ高校出身で就職希望だったのですが、ハローワークの求人票からは選ばず、「自分はこれがやりたい」ということを言い続け、現在は東京のベンチャー企業でやりたかったことを仕事にしています。同じ高校で就職した友人で唯一学校経由で就職せず、自分で就職先を決めた人間です。
そいつとその時に会ったときに、ハッシャダイのインターンのことを聞きました。この時にインターンの話を聞いていなかったら今僕は東京にいなかったと思います。
その時の僕自身は、もっと他に可能性があるだろうと思っていました。具体的には、別の地元企業への転職を考えていました。でも東京でのインターンの話を聞いて、転職して同じことを繰り返すことも嫌だなと思い、環境を変えて、周りの人を変えれば自分も良い方向にいけるんじゃないかなと。
自分の中では決まったものの、親からはめちゃくちゃ反対されました。「何も考えてこなかったのに、今仕事を辞める意味が分からない」と言われましたね。
結局、親は説得できませんでした。仕事を黙って辞めて、インターンの参加を申し込んで、そして事後報告です。それでも、「言っていることが全然伝わってこない」と言われましたが、最終的には「好きにやればいい」と言って送りだしてくれました。
やはり、親としては一年もたたずに仕事を辞めることに抵抗があったのだと思います。
古屋:
誰にも相談せず、自分で退職を決めて自分で手続きもして。ひなの巣立ちのような気分で、親御さんは最後送り出してくれたのかもしれませんね。東京に来てどうでしたか?それとこれは皆さんに聞いているのですが(笑)、東京にきた最初の夜ごはんを覚えていますか?
木村:
ハッシャダイのインターンに参加したんですが、当時YouTubeの動画の宣伝を通して、高校卒業後すぐに来た同期が多くいました。僕は社会人経験があったためか、同期の仕事に対する考え方がちょっとおかしいんじゃないかなと思ったんです。できなくても謝れない、改善してこないという。でも少し考えると、自分ももしかすると程度の問題で他の先輩方から見るとそうなのかもと思ったりもしました。
野球部のポジション争いも、工場の仕事も。無駄なことはひとつもなかった
古屋:
もしかすると、初職が製造業だったことが影響しているのかもですね。日本の製造業の現場は国際的な水準にありますが、現場における改善活動やPDCAサイクルを回して生産性を高めるといった文化を1年弱の間に身に着けていたのかもしれませんね。先ほど「良かったことはなにもない」とおっしゃっていましたが(笑)、お話の端々からはむしろ製造現場で働いていた影響を感じます。
木村:
そうかもしれません。全然そんな感触はなかったのですが、感覚的に体得していたのかもしれませんね。だとすると、無駄ではなかったのかな。
あと、最初の夜ごはんは、東京駅の地下のラーメン横丁でラーメンを食べました。味は全然おぼえていません。東京はどこに入っても美味しいですよね。ラーメンは長野だと新規開拓は失敗することが多かったので。
インターンのプログラムは、訪問販売営業でしたが自分はとても売れました。3か月間で最高で月30件は売れました。そのときに自分はPDCAをまわすのは得意だなと思いました。客観的にみて、自分のやり方を改善していく。さらに、その後3か月は電話営業をしました。こっちの成果は微妙でした。たぶん理由は本気度が全然違ったんだと思います。
実は、東京へ来る前に車で事故を起こしていて、70万くらい借金を背負ってしまいました。東京に来た時はそんなこんなで全くお金がなくて、「一日一食豆腐」生活だったんです。栄養価と値段で選んだら豆腐です。だから、訪問販売が売れなかったら豆腐しか食べられなくて、もしかすると豆腐も食べられなくて・・・。
母子家庭だったし飛び出て来ちゃっているので実家の援助も当然ありません。“飢え”の恐怖と戦いながら飛び込みで営業していたのは東京広しといえど僕だけだったと思います。だから売れたんですね。訪問販売である程度稼げて借金を返せたあとはやる気がなくなったので電話営業はダメだったんだと思います。
古屋:
豆腐生活から脱出できて本当に良かったですね。木村さんは自分を客観的に見て得意不得意を把握して、得意を伸ばすためにPDCAサイクルをまわすことが上手なのかもしれませんね。そういう意味では、野球部時代のポジション争いやファーストキャリアの工場での経験が活きているのかもしれません。
木村:
そうかもしれません。無駄なことは何もなかったのかもしれませんね。これまで出会った全ての人が今の自分を作っていますね。そしてまた、素晴らしい出会いがあって、この10月からはコンサルタントとして働いています。1年前の自分からは想像もつかないですね。
今後の目標は、中卒・高卒の就職者に向けてサービスつくっていきたいと思っているんです。やっぱり色々な苦労があるので。そしてもう一つ。将来起業したいという仲間がたくさんいるので、今の会社で学んだコンサルティングを活かして、ゼロスタートの企業へのサポートをしていきたいと思っています。
古屋:
過去の経験が今に繋がって、今の仕事の延長線に未来の目標があって。とても素敵ですね。応援しています!
聞き手・書き手
古屋星斗