現在、東京電力の人材企画部門で活躍している佐藤彰さん。大手電力会社という”お堅い企業”に所属されていますが、実はいくつもの社会人コミュニティを創設し、社外にも幅広いネットワークを持つ人材でもあります。さてそんな佐藤さんは高校卒業後、東京電力に入りました。どんなキャリアを歩んできたのでしょうか。なぜ安定した企業を飛び出て、活動しようと思ったのでしょうか。今回はインタビュー中編になります。

前回 『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編

古屋:修羅場を乗り越えて、一皮むける。当時は辛い日々だったでしょうが、今一番感謝しているというのは素敵ですね。その次はどのようなお仕事をされたのでしょうか?

佐藤:本社の法務室へ異動になりました。これは衝撃の人事だったんです。当時の上司に「お前、法務できるようになってこい」ということで半年間行くことになりましたが、本社法務室というと経営課題や裁判対応などの会社の最後の砦。当然、所属するメンバーは東大や慶応等の法学部卒ばかり。かたやこっちは「柏崎商業高校卒、得意な科目は簿記、六法全書初めて触れます!」という奴がいく。
結構笑えない冗談ですよ。もちろん、法務室に弊社歴史上初の全くの未経験高卒の配属です。

古屋:年齢はほぼ同年代の若い方がいらっしゃったのかもですが、今まで通ってきた道が違いすぎますね。法務室のお仕事はいかがでしたか?

佐藤:強烈でした。六法全書をぽんっと渡されていきなり社内の法律相談や訴訟対応をする。社内からの法律相談はヘルプラインがありそれを取った者が責任もって対応する。様々な部門からの多様な相談、取締役会に諮るような重要案件の相談も多い。裁判対応だっていきなり「民事訴訟法」とか言われても聞いたこともない言葉の連続。最初の一か月は地獄でした。
部署のナレッジ共有のデータベースがあったので、答えは教えて貰えなないけど先輩は調べ方は教えて貰いました。データベースや判例、書籍をひたすらそれで調べて回答して、という連続の日々でした。

古屋:いきなり工事のプロジェクト・マネージャーから全然違う仕事ですね。最初の一か月を乗り切ったときやはり前のお仕事の経験は活きてきましたか?

佐藤:その前の総務で技術的な仕事含めでこぼこな経験があったので、案件ごとの期待される回答のレベル感がイメージできたのが大きかったですね。自分のなかの全体のスケール感があり、その期待値を超えようという考えで仕事をしました。次の次まで考えて、ムダなくしかし常に120%調べてまとめることができたと思います。
そんなこんなで、ついに法務室では「佐藤はヘルプラインを取りすぎだ」と怒られました。お前が取りすぎて他の人の仕事がなく、「他の若いやつが育たないだろう」と。相談対応件数も圧倒的にトップだったと思います。中越沖地震の現場を経験していますので、瞬発力や時間の感覚が違ったかもですね。
そういう意味では、東電でのキャリアは、総務で総合力がつき、中越沖で瞬時に判断していくような緊急対応を行い、法務室で全く何も知らない中でもなんとかなるんだという度胸を身に着けることができたと思います。

古屋:地獄から得るものは、天国から得るものよりも多いんですよね(笑)。25歳くらいでまた異動されていますね。

佐藤:はい。2011年4月に東日本大震災と福島第一原発の事故があり、新潟を中心とした北陸地方対応拠点の原子力補償相談センター立ち上げを行いました。事務所を1週間程度で作れという無茶ぶりもいままでの経験を駆使して、なんとか間に合わせました。
事務所発足後は様々な県、いろいろな部署から総力戦で人が集められますが、当然法律知識などもなく原子力も知らない方が大半。法律も原子力もわかる人間が自分以外いませんでした。
事務所に異動された方は、全く知らない土地、原子力もわからず事故の状況も把握できない中でも来て何が何だかわからないまま避難所に行かなければならない。なのに、誰一人他責は皆無で、何も文句も言わず強い責任感で何とかしないと!と避難されている方のところに誠心誠意お詫びするため飛び込んでいく、そういった先輩たちの背中を見ると涙が止まりませんでした。その背中から多くを学びました。
私はというと、唯一の法務経験者で原子力も理解していることもあり、主に矢面にたって説明や非常に厳しいご質問に先頭に立ってお答えしていく、そういった対応をしていました。
正直、そのなかでもメディアを意識しての対応が一番辛かったですね。避難所での説明会やその後の賠償の説明会に多くのメディアが入ることが多くあります。ご避難された方、被害を受けられた事業をされている方には誠心誠意、しっかりとお答えするだけなのですが、メディアが入ると難しい場面が増えていく。正しく回答してもメディアは前後の文脈を切り取って報道されますから、違う形で報道になる。どこを切り取られるか編集点を意識して回答する必要がある。でも考えて沈黙の数秒が生じると、それがまた「回答に窮する」と報道されるので、説明会に参加された方からの回答が困難な厳しい質問にも瞬時に考え、言葉を選び、発声しないといけません。
その後は企業賠償や自治体賠償に携わりました。これも難しかった。相手は大企業の取締役が出てくるなか、損害額もとんでもない金額の交渉の場でこちらは上司と26歳の若僧。「なめてんのか!こんな若いやつ寄こして」と。書類投げつけられたり怒鳴られたりと、毎回マイナスからのスタート。企業や自治体の方に心情面の対応では信頼は得られず、理路整然とロジカルな説明を重ねて信頼を得ていくしかありませんでしたね。

古屋:私も行政で福島県浜通りの避難指示区域復興のお仕事をしていたことがあるので、事故によって避難された方々のお気持ちは痛いほどわかりますし、その場で対応されていた東電の方々の面持ちも忘れることができません。佐藤さんはどのような気持ちでそのお仕事をやってらっしゃいましたか?

佐藤:厳しいし辛かったです。もちろん、辞める人も多かったですし、私自身も報道もされたとおり給料は大きく下がり、「辞める」という選択肢は容易に頭の中に出てきました。でも、目の前で苦しめてしまった人がいる責任感と、やっぱりこの会社の好きだというのがあって。少しでもこの状況をなんとかしたいという気持ちでした。そして、こう言うと語弊があると思いますが、当時26歳、東電の中でも20代で矢面に立って土下座、説明するような立場だったのは自分だけだったと思います。
「世界にもほとんど前例のない大規模な事故・膨大な損害。その類の少ない歴史的な厳しい場に26歳で先頭に立ち、直接向き合い対応する機会をいただいている。26歳でこのような経験をできる人が一体世界を見渡してもどのくらいいるのだろう?そう考えると、自分はまさに糧といえるような人生で一番得難い経験をさせて頂いているんじゃないか」、と思ったんですね。
お一人おひとりの怒り、憎しみ、家族を失う深い悲しみ、こうしたことに当事者として向きあうこと。企業の方はその倒産するか否かの選択、社員の人生を全て背負って意思決定しないといけない重責。そういったことをやらせていただけることにありがたいと思い、「真摯」「誠実」「誠意」とは何かをずっと考えながら全力でおひとりおひとりと向き合い続ける日々でした。
正直、あの時自分は何かができたであろうか、いまだにわかりませんが・・・

古屋:そのあとに人事に異動されていらっしゃいますね。これはご希望どおりだったのでしょうか。

佐藤:29歳で人事に異動しました。実は、希望は出していないんです。単に、会社ジョブローテーションでまわしたんだと思います。普通は決まった部門内でまわしていくのですが、自分は異例なキャリアだと思いますゼネラリストは珍しく、新しいキャリアパスだと思います。
そのため、ロールモデルがほとんどいないんです。偶然総務のときに、高卒の先輩が、多様なプロジェクト対応しているなんでも対応できるようなキャリアだったので、その方が貴重なロールモデルでした。高卒の事務系のロールモデルの先輩でしたね。
現場で初めての人事業務全般を1年半経験してまたすぐに本社の東京電力グループ全体の労務人事部門の責任を担う組織に異動となりました。
そこですぐに会社創業60年の歴史で初めての分社化の対応。その後には、会長肝いりの生産性倍増プロジェクトの主担当になったり、働き方改革・ダイバーシティの戦略立案や制度企画、組合対応など初めて尽くしの職務でした。やっぱり最初の半年くらいは地獄(笑)。とにかく手探りで必死にやっていって少しずつ自分の軸・やりたいことができてきて、柔軟なリモートワークの会社で初めて導入したり、様々な施策を矢継ぎ早に実行していきました。最後のほうは、「TEPCOの働き方が変われば日本の働き方が変わる!」を自分のスローガンにして取り組んでましたね。

 

佐藤彰さんインタビュー記事一覧

『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』中編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』後編