カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい 中編

現在、東京電力の人材企画部門で活躍している佐藤彰さん。大手電力会社という”お堅い企業”に所属されていますが、実はいくつもの社会人コミュニティを創設し、社外にも幅広いネットワークを持つ人材でもあります。さてそんな佐藤さんは高校卒業後、東京電力に入りました。どんなキャリアを歩んできたのでしょうか。なぜ安定した企業を飛び出て、活動しようと思ったのでしょうか。今回はインタビュー中編になります。

前回 『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編

古屋
修羅場を乗り越えて、一皮むける。当時は辛い日々だったでしょうが、今一番感謝しているというのは素敵ですね。その次はどのようなお仕事をされたのでしょうか?

佐藤
本社の法務室へ異動になりました。これは衝撃の人事だったんです。当時の上司に「お前、法務できるようになってこい」ということで半年間行くことになりましたが、本社法務室というと経営課題や裁判対応などの会社の最後の砦。

当然、所属するメンバーは東大や慶応等の法学部卒ばかり。かたやこっちは「柏崎商業高校卒、得意な科目は簿記、六法全書初めて触れます!」という奴がいく。

結構笑えない冗談ですよ。もちろん、法務室に弊社歴史上初の全くの未経験高卒の配属です。

古屋
年齢はほぼ同年代の若い方がいらっしゃったのかもですが、今まで通ってきた道が違いすぎますね。法務室のお仕事はいかがでしたか?

佐藤
強烈でした。六法全書をぽんっと渡されていきなり社内の法律相談や訴訟対応をする。社内からの法律相談はヘルプラインがありそれを取った者が責任もって対応する。

様々な部門からの多様な相談、取締役会に諮るような重要案件の相談も多い。裁判対応だっていきなり「民事訴訟法」とか言われても聞いたこともない言葉の連続。最初の一か月は地獄でした。

部署のナレッジ共有のデータベースがあったので、答えは教えて貰えなないけど先輩は調べ方は教えて貰いました。データベースや判例、書籍をひたすらそれで調べて回答して、という連続の日々でした。

古屋
いきなり工事のプロジェクト・マネージャーから全然違う仕事ですね。最初の一か月を乗り切ったときやはり前のお仕事の経験は活きてきましたか?

佐藤
その前の総務で技術的な仕事含めでこぼこな経験があったので、案件ごとの期待される回答のレベル感がイメージできたのが大きかったですね。

自分のなかの全体のスケール感があり、その期待値を超えようという考えで仕事をしました。次の次まで考えて、ムダなくしかし常に120%調べてまとめることができたと思います。

そんなこんなで、ついに法務室では「佐藤はヘルプラインを取りすぎだ」と怒られました。お前が取りすぎて他の人の仕事がなく、「他の若いやつが育たないだろう」と。

相談対応件数も圧倒的にトップだったと思います。中越沖地震の現場を経験していますので、瞬発力や時間の感覚が違ったかもですね。

そういう意味では、東電でのキャリアは、総務で総合力がつき、中越沖で瞬時に判断していくような緊急対応を行い、法務室で全く何も知らない中でもなんとかなるんだという度胸を身に着けることができたと思います。

古屋
地獄から得るものは、天国から得るものよりも多いんですよね(笑)。25歳くらいでまた異動されていますね。

佐藤
はい。2011年4月に東日本大震災と福島第一原発の事故があり、新潟を中心とした北陸地方対応拠点の原子力補償相談センター立ち上げを行いました。事務所を1週間程度で作れという無茶ぶりもいままでの経験を駆使して、なんとか間に合わせました。

事務所発足後は様々な県、いろいろな部署から総力戦で人が集められますが、当然法律知識などもなく原子力も知らない方が大半。法律も原子力もわかる人間が自分以外いませんでした。

事務所に異動された方は、全く知らない土地、原子力もわからず事故の状況も把握できない中でも来て何が何だかわからないまま避難所に行かなければならない。

なのに、誰一人他責は皆無で、何も文句も言わず強い責任感で何とかしないと!と避難されている方のところに誠心誠意お詫びするため飛び込んでいく、そういった先輩たちの背中を見ると涙が止まりませんでした。その背中から多くを学びました。

私はというと、唯一の法務経験者で原子力も理解していることもあり、主に矢面にたって説明や非常に厳しいご質問に先頭に立ってお答えしていく、そういった対応をしていました。

正直、そのなかでもメディアを意識しての対応が一番辛かったですね。避難所での説明会やその後の賠償の説明会に多くのメディアが入ることが多くあります。

ご避難された方、被害を受けられた事業をされている方には誠心誠意、しっかりとお答えするだけなのですが、メディアが入ると難しい場面が増えていく。

正しく回答してもメディアは前後の文脈を切り取って報道されますから、違う形で報道になる。どこを切り取られるか編集点を意識して回答する必要がある。

でも考えて沈黙の数秒が生じると、それがまた「回答に窮する」と報道されるので、説明会に参加された方からの回答が困難な厳しい質問にも瞬時に考え、言葉を選び、発声しないといけません。

その後は企業賠償や自治体賠償に携わりました。これも難しかった。相手は大企業の取締役が出てくるなか、損害額もとんでもない金額の交渉の場でこちらは上司と26歳の若僧。「なめてんのか!こんな若いやつ寄こして」と。

書類投げつけられたり怒鳴られたりと、毎回マイナスからのスタート。企業や自治体の方に心情面の対応では信頼は得られず、理路整然とロジカルな説明を重ねて信頼を得ていくしかありませんでしたね。

古屋
私も行政で福島県浜通りの避難指示区域復興のお仕事をしていたことがあるので、事故によって避難された方々のお気持ちは痛いほどわかりますし、その場で対応されていた東電の方々の面持ちも忘れることができません。

佐藤さんはどのような気持ちでそのお仕事をやってらっしゃいましたか?

佐藤
厳しいし辛かったです。もちろん、辞める人も多かったですし、私自身も報道もされたとおり給料は大きく下がり、「辞める」という選択肢は容易に頭の中に出てきました。

でも、目の前で苦しめてしまった人がいる責任感と、やっぱりこの会社の好きだというのがあって。少しでもこの状況をなんとかしたいという気持ちでした。

そして、こう言うと語弊があると思いますが、当時26歳、東電の中でも20代で矢面に立って土下座、説明するような立場だったのは自分だけだったと思います。

「世界にもほとんど前例のない大規模な事故・膨大な損害。その類の少ない歴史的な厳しい場に26歳で先頭に立ち、直接向き合い対応する機会をいただいている。

26歳でこのような経験をできる人が一体世界を見渡してもどのくらいいるのだろう?そう考えると、自分はまさに糧といえるような人生で一番得難い経験をさせて頂いているんじゃないか」、と思ったんですね。

お一人おひとりの怒り、憎しみ、家族を失う深い悲しみ、こうしたことに当事者として向きあうこと。企業の方はその倒産するか否かの選択、社員の人生を全て背負って意思決定しないといけない重責。

そういったことをやらせていただけることにありがたいと思い、「真摯」「誠実」「誠意」とは何かをずっと考えながら全力でおひとりおひとりと向き合い続ける日々でした。

正直、あの時自分は何かができたであろうか、いまだにわかりませんが・・・

古屋
そのあとに人事に異動されていらっしゃいますね。これはご希望どおりだったのでしょうか。

佐藤
29歳で人事に異動しました。実は、希望は出していないんです。単に、会社ジョブローテーションでまわしたんだと思います。普通は決まった部門内でまわしていくのですが、自分は異例なキャリアだと思いますゼネラリストは珍しく、新しいキャリアパスだと思います。

そのため、ロールモデルがほとんどいないんです。偶然総務のときに、高卒の先輩が、多様なプロジェクト対応しているなんでも対応できるようなキャリアだったので、その方が貴重なロールモデルでした。

高卒の事務系のロールモデルの先輩でしたね。現場で初めての人事業務全般を1年半経験してまたすぐに本社の東京電力グループ全体の労務人事部門の責任を担う組織に異動となりました。

そこですぐに会社創業60年の歴史で初めての分社化の対応。その後には、会長肝いりの生産性倍増プロジェクトの主担当になったり、働き方改革・ダイバーシティの戦略立案や制度企画、組合対応など初めて尽くしの職務でした。

やっぱり最初の半年くらいは地獄(笑)。とにかく手探りで必死にやっていって少しずつ自分の軸・やりたいことができてきて、柔軟なリモートワークの会社で初めて導入したり、様々な施策を矢継ぎ早に実行していきました。

最後のほうは、「TEPCOの働き方が変われば日本の働き方が変わる!」を自分のスローガンにして取り組んでましたね。

 

佐藤彰さんインタビュー記事一覧

『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』中編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』後編

カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい 前編

現在、東京電力の人材企画部門で活躍している佐藤彰さん。大手電力会社という”お堅い企業”に所属されていますが、実はいくつもの社会人コミュニティを創設し、社外にも幅広いネットワークを持つ人材でもあります。さてそんな佐藤さんは高校卒業後、東京電力に入りました。どんなキャリアを歩んできたのでしょうか。なぜ安定した企業を飛び出て、活動しようと思ったのでしょうか。今回はインタビュー前編になります。

 

古屋
(聞き手、当団体代表理事):
佐藤さんは新卒から東電にいらっしゃいますが、これまでいろいろな仕事をなさったと聞いております。まずは入社前のお話を聞きかせてください。

 
佐藤彰さん(以下、敬称略):
私は新潟の商業高校出身です。商業高校を選んだのは、「学ぶための学び」が嫌いで、普通高校で「受験のための勉強」で5科目の勉強をするのに努力することに意義を感じられず、実践的なスキルを得たいと思ったからです。

情報経理科で成績は決してトップクラスではなく40人中10~14位くらい。成績は極端で、好きな簿記、数学、歴史などはトップクラス。でも国語とか地理は勉強する意味がわからず赤点目前の時もあったくらい。

大学進学しなかったのも、その時学びたいと思うことがなかったからですね。だから就職を選択した。高校の就職活動では、事務職の求人票って15から20枚くらいしかない。その中で一番条件がいい東京電力を選択したという薄い動機ですね(笑)。

古屋
実際社会で役に立つ勉強がしたい、という思いが強かったのかもしれないですね。「やるなら意味のあることを」という気持ちはなぜ子どものころから強かったのでしょうね。

 
佐藤
いま考えると、家庭環境が大きいんだと思います。母親の影響かも。うちの兄弟はみな、小学校低学年で家出を試みるんです(笑)。母親は怒ると車で見知らぬ土地に置いていかれたりとかするんですね。

そういう困難にぶち当たっていると、親に頼っていたら生きていけないんだ、と確信してしまう。依存ではいけない、自分で生きる、いかに自立するかを考える。だから家出を試みるんです(笑)。

この時から自分に対しては自分が責任をとるということを意識していたような気がします。そうすると「学ぶために学ぶ」といったそれ自体が目的化された意義のないことは前からきらいなのかもしれません。
 
古屋
そんな高校時代に、佐藤さんが力を入れたことはなんですか?

 
佐藤
テニス部をつくったことですね。テニスがやりたかったんですが部活がなかったんです。ですから最初3人から初めて。最終的には20人以上になりました。

もうひとつは、商業高校だったこともあり、授業のペースを超えてワンランク上の資格をとることです。高3になってすぐに日商簿記2級、初級システムアドミニストレータを取りました。

 
古屋
当時から行動的だったんですね。そんな高校時代から、社会人、入社してすぐはどのようなお仕事でしたか?

 
佐藤
柏崎の事務系採用は電気事業の管内のお客様対応をする。私は群馬で2年3か月、窓口対応をしていました。電気事業管内の仕事は期間が限られていたので、2年経過した後は、貴重な管内の仕事をもっと広く経験したいと思い、週4日窓口を密度上げて一人の対応量増やすので、週1日は現場の料金収納や各種サービス、電柱作業等もさせてくれと上司を説得し、金曜は現場作業もさせてもらっていました。

 
古屋
今風の言葉で言えば、自分で企画して部署内副業をされていたんですね。

 
佐藤
かっこよく言えばそうかもですね。業務改善提案で表彰も頂きました。提案内容自体は細かいことの積み重ねです。窓口の机って、机の上にクリアの透明なシートをかぶせてあるけど、これが黄ばんでいてどんないいパンフレットも昭和バージョンになっちゃう(笑)。

たったこのシートを変えるだけで一気に自分もお客様も気分がよくなるなぁ、とか(笑)。本当に細かいことです。そういった小さな提案をたくさんしていました。

窓口対応は、目の前のお客様に精神誠意対応することをずっと考えていました。どうすれば5分10分で満足して頂けるか、そう考える日々を送ると、窓口の至らない部分が見えてきたりするんですね。

その時は、毎朝少し早く来て、必ずお客様出入口から店内に入り、人はどういった視線でどこに目が向くのか、目に見える風景からどんな感じがするのか、そしてパンフレットやポスターは目につく角度・高さにあるか。

それに合わせてパンフレットの位置を変えたりというのを毎日シミュレートしたりしました。お客様が実際に行動する動線・向きに自分もあわせてやっていましたね。

そのなかで、段々大きなところも気がつき出して・・・ということで表彰されて。最終的に、その取組のなかで当時の業務のフロー表の自分でつくって、プロセス改善などもしていた。特に誰に言われたわけでもないのですが(笑)。
 
古屋
すごいですね。顧客目線を徹底して想像する、なぜそのようなことをしようと思ったのでしょうか。

 
佐藤
高校でガソリンスタンドでバイトしていたころの影響かもしれません。コンビニ店員でも事務的な対応の人もいれば、素晴らしい対応の人もいるじゃないですか。

同じバイトをして、同じ時給で時間を拘束されるんだから、最高のサービスを提供できた方が学びが多いし楽しいしで、得じゃないですか。

なので、自分のバイト先のガソリンスタンドでもどうせなら楽しい対応をしたいと思っていて。ドライバーの目線はどこにいくのか、どんな音量・トーンなら気持ちがいいか等を常に意識していました。
 
古屋
ジョブクラフティング、という言葉があります。仕事を楽しい、やりがいのある方向に作り変えてしまう、という概念なんですが佐藤さんの姿勢はまさにそれですね。

 
佐藤
そんな言葉があるんですね、知りませんでした。
21歳になった頃、キャリアパスの一環として、柏崎の総務部総務に異動になりました。

世界がガラッとかわりまして。わからないことだらけ。しかも、総務のなかでも特殊なチームで、億円単位の工事の設計・交渉・発注・監理・会計処理など、これって総務か!?と感じるような技術的な仕事をしていました。

いきなり工事を設計せよとか言われてもわかるわけないじゃないですか(笑)。だから、この時は素直にわからないと言って、ひたすら他部門の方に聞いて学びました。

この時の上司は厳しかったですね。でも今の自分があるのもその上司のおかけで心から感謝しています。20歳で群馬で表彰され、その時はまぁ生意気な面もあって・・・でも見事に鼻っ柱をへし折ってくれました(笑)。

上司の問いはいつも本質的で言い訳の余地がない。「前例がこうだった」とか「先輩がこう言っていた」と言うと、「お前はどう考えているんだ、前例なんか聞いていない」とど真ん中を槍で突き刺され、こう言われると逃げ場がない。当時は夢の中でも上司に怒られていましたね・・・。でも仕事で、自分がやるという意味について真剣に向き合うきっかけをくれました。

そうした中で中越沖地震が発生します。私は設備管理も担当していたので、復旧が発電所として急務であらゆる業者を集め、発電所の冷却水を確保するのにも断水をいかに1時間でも早く復旧するかを昼夜問わず走りながら対応していく、もう緊急事態ですから必死です。

前例なんか無視でとにかくなんとかしないと、と。その後、免震重要棟建設プロジェクトに関わりまして、その時23歳でしたね。計画を主導する立場でした。プロジェクト・マネージャー的に調整する立場です。

こうした経験ができたのも、当時所属していたチームの先輩やリーダーに育てていただいたからこそ。今でも尊敬しています。

 

佐藤彰さんインタビュー記事一覧

『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』前編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』中編
『カーナビが示す大通りよりも、自分で見つけた細い道を行きたい』後編

受験失敗、耳が聞こえなくなり、会計士、CFO、そして今。狙ったわけじゃない。でも、本気

みなさんは子どもの頃、どんなお仕事をする人になりたかったですか?今回は、現在M&Aなどの専門コンサルタントとして活躍する土井一真さんにお話を伺います。高校卒業後、「なりたい」どころか存在すら知らなかった仕事に就いたという土井さん。どのようなきっかけがキャリアを作ってきたのでしょうか。

古屋:(インタビュワー、本法人代表理事 以下、敬称略) 
現在27歳の土井さん。専門コンサルティングファームのこれまでのキャリアのなかでたくさんの紆余曲折があったと聞きました。まずはそんな土井さんのキャリアづくりの原点を聞きたいです。

土井
自分のキャリアの原点は父にあると思っています。父は今も昔も変わらぬトップ営業マンで、元々は山一証券にいました。自主廃業した時は32歳で最年少課長でした。次世代幹部の候補だったそうです。周りの方からの人望もあったと雑誌に書いてありましたが、会社がなくなってしまいました。
しかも、自社株の返済のために600万円の借金も抱えてしまったそうです。ただ、営業マンとしてのスキルが認められたのか、住友銀行に入社して最年少課長をやったということ。更に、メリルリンチに転職したりと活躍していたそうです。プライベートバンカーの最前線で、プレイヤーとして30年間やってきた。そんな父親を子どもの頃から今も変わらずとても尊敬しています。
この父と、将来一緒に何かビジネスをやりたいなと思ったのが自分の原点だと思います。もちろん反抗期もありましたが。

古屋
とてもはっきりとしたスタートラインがあったのですね。土井さんは、どんな高校時代を過ごしていましたか?

土井
良くある話ではありますが、17歳まで勉強したことがなかったんです。僕の高校は大阪府立三島高校というところでした。高校2年生くらいになると周りが勉強し始め、僕も楽天の三木谷さんとかに憧れて、高校2年生の秋に初めて塾に通いました。起業に憧れていたんですよね。だから商業科の強い大阪市立大学や一橋大学で迷いました。最終的には一橋大学を目指して勉強しましたが、現役では不合格で浪人しました。京都で勉強していましたね。
実はその時は、自分の人生をこんな若くして決めなきゃいけないのか、と思っていました。子どもの進路を決めない教育をしている日本で、「なんも教えて貰ってないのになぜ今進路を決めなきゃいけないのか!?」と疑問に思ったんですよね。

古屋
学校はものを教わるところですが、進路選択については「何も教えて貰っていない」と思ってしまったんですね。

土井
そうなんです。そんなこんなで勉強をしていたのですが、浪人1年目の10月に突然病気になってしまいました。そのせいでいまも右耳が全く聞こえません。英語のリスニングがまったくできない。当時は若輩者だったので東大、京大、一橋、慶應以外の大学は大学じゃないと思っていて、これで自分が合格できる可能性がなくなったかと思うと腹が立ち、他大学の入学申込書を燃やしました。
3月くらいまで悶々としていまして、これから受験もせずどう生きるか全然決まっていない時に、父から「会計士というものがあるぞ。」と言われたんです。会計士は大学に行かなくてもとれる。そんなことを頭の片隅で考えながらも、酷いめまいに耳鳴りと、これが収まるまでは何もできませんでした。
浪人後すぐに資格予備校に籍を置きましたが、「僕が何かすれば両親が安心する」という一心で、自分のキャリアアップとかそういうことでは全然ありませんでした。
体調が回復していく中で、本格的に勉強し始めたのは、発病から2年弱経った20歳の7月頃、かつての同級生だった連中も、大学の3年生になりダブルスクールで通ってくる連中も増えていました。「俺と同い年の人間がいる。今頑張らないと!」と奮起して勉強だけしていました。
半年後の12月に短答式試験に合格。その後、翌年8月の論文式試験にも無事合格しました。

20歳の時。一番左手がお父様。

古屋
大学に行った自分の「あったかもしれない未来」と競争することでモチベーションを高く持ち勉強できたのかもしれませんね。就職活動はどうでしたか?

土井
就職活動はとても苦労しました。当時は世間知らず、且つ外弁慶でした。監査法人の最終面接で、「監査なんて大っ嫌い!」と言ったりとか(笑)。監査なんてやるのは、金融庁の犬だと思ったので。金融庁のつくったルールを守るだけ、仕事の性質上、過去の出来事ばかりを見ることが嫌でした。
そんな中、大手会計事務所でM&A部隊を立ち上げた方がやっているM&Aブティックに就職できました。その社長も会計士業界を憂いており、監査などではなく、自分で新規事業を始めようとしていました。私は最初の3ヶ月間は研修として、最初は記帳、税務申告、監査、事業計画策定などをしました。研修後、本格的に新規事業に携わることになり、ここでようやく同級生が社会人1年目の春を迎えている頃でした。無駄に回り道をしましたが、ようやく自分の人生は人並みに追いついたと安心した記憶があります。そしてここから、人と比較せずに、フルスピードで悔いなく社会人生活を始めることを自分に誓いました。
新規事業は当時流行っていたESCO事業とリート事業を組み合わせた省エネ事業を立ち上げ、運営していました。損益的には上手くいっていて、IPOを目指し人員を拡大していました。私はといえば、CFOとして資金調達をメインに携わっていました。20~30ほどの金融機関と日々交渉をしていました。今では珍しい、借入で資金調達をしている会社でしたね。
ただ、上記の「ベンチャーで財務責任者」の仕事に携わるなんてことは、入社時含めて僕が狙ったわけじゃないです。「何でもやります!」的なことは言っていたかもしれませんが、本気で取り組んでいたら、偶然にそうなったとしか言えないです。

古屋
最初就いたのが全然想像もしていなかったような仕事だったというのがとても面白いですね。そんな偶然のなかで、本気を出したから今があるんですね。

土井
そうですね。全く想像すらしていなかったし、高校生の頃はそんな仕事が存在しているとすら思いませんでした。その会社はIPOを目指していましたが、諸事情により社長と喧嘩別れみたいな形で辞めてしまいました。何年後かにお詫びの挨拶には行きましたが。
ベンチャーを辞めてすぐ、大手の会計系コンサルティング会社に入社しました。
転職4か月目で広島へ。そこで今の会社の社長と出会いました。この人はすごくて、20歳で大学行かずに、当時日本最年少で税理士試験に合格し、このコンサル会社では最年少役員でした。今では師匠だと思っています。その人が広島で支店長をやっていました。これも偶然の出会いですね。
もちろん、優秀な人だけに、周りにも非常に厳しく、僕もつらいこともたくさんありました。でも、前のベンチャー企業を2年4か月で辞めていたので、今回は意地でも本気で3年間は頑張ろうとまた自分に誓いました。それが評価されたのか最年少マネージャーになることができました。広島では本当に“死ぬほど”仕事をしましたね。あと、なんとなくですが、恋愛することを許されていないとも思っていて、都会のパーティーには行かずに、地方で仕事だけをしていました。今思うと変な話なんですが(笑)。
現在は、その師匠と一緒にと思い、広島で中国四国地方を基盤に置き、M&Aや事業承継、組織再編専門のコンサルティングファームを立ち上げ、日々奮闘中です。

古屋
偶然の出会いがとても大きなきっかけになりましたね。では、土井さんが今、目標としているのはどんなことですか?

土井
人生の目標としては、日本一のプライベートバンカーになることです。そして、欧米流のプライベートバンカーファームを創りたいです。数値的な目標は、預かり資産1兆円です。例えば、欧米のプライベートバンカーは3世代続くんです。つまり、父親がつくった波を子の世代で育てて、孫の世代に引き継いでいく。僕もこれをやりたいんです。そのために、社会をより良くする起業家を起業から転換期まで支えることが出来るように、今は様々な出会いを重ねながら、腕を磨いている感じです。
自分のキャリア感としては、付加価値の高さを一番大事にしています。付加価値を因数分解すると、1つに「希少性」が挙げられると思います。今はこの希少性を高めるために、どちらかというと逆張りの人生、人とは異なる人生を意識的にしています。珍しい業界×専門知識×生き方を組み合わせて、諸々掛け算して、希少性の高い職業人になっていきたいです。今は、高卒の人材×闘病経験あり×会計士×起業経験2回あり、みたいな感じですかね。あと国会議員事務所で秘書もやっていたのでそれもかな。
今はまさに本気で掛け算中なのが、「地方」です。「非東京」のカテゴリーで本気を出して、結果を出せれば人生がより一層楽しくなりそうです。

古屋
とても大きな夢ですが、土井さんのこれまでのキャリアの紆余曲折によって実現の説得力が増しているように感じます。応援しています!

野球部のポジション争いも、工場の仕事も。すべてが今につながっている/木村 壮馬(非大卒人材 vol.03)

今回は、長野県出身の19歳、木村壮馬さんにお話を伺います。野球一筋だった高校時代、地元の大手包装資材メーカーへの就職を経て、現在は東京でコンサルタントとしてのキャリアを歩んでいます。どんな選択が木村さんのキャリアをつくってきたのでしょうか。

部活漬けの高校時代

古屋(インタビューワー、本法人代表理事 以下、敬称略):
木村さんはまだ19歳ということで飲みの席でお酒が飲めないのに、バリバリ仕事をしているということでとても違和感があります(笑)。

24歳まで学校に行っていた私からすると「凄い」の一言ですし、長野県から上京してひとりで働いているというのもすごいのですが、学生時代はどんな学生さんでしたか?

木村
中学、高校では部活漬けでした。今思えば、結構部活時代の経験がいきています。そのおかげもあって、まわりの人に感謝して精一杯がんばろうとし続ける人間形成がされてきたのかもしれません。

野球部を通じて培われたそういった心のためか、前職を辞める際にも親に対して申し訳ない、という気持ちがありました。転職=マイナスというか。中途半端な人間になっているんじゃないかなと。この働き方だと、人間的にも成長できないしと、そういった気持ちは当時はありましたね。

古屋
野球部の時の経験が進路選択をする際にも活きているのですね。部活は楽しかったですか?

木村
はい。部活をやっていた時は自分に自信がありました。根拠がない自信でしたが(笑)。なんというか、思考力は負けない。能動的に考えるという力、常に求め続けていないとポジションが得られませんので。僕の通っていた商業高校では野球部は部員が100人ほどいました。

高校入学して真っ先に野球部に入りましたが、入った瞬間に分かったのは、僕の中学時代の野球のレベルは低かった、ということ。高校では3軍レベルでした。その高校では、なかには一打席もバッターボックスに立てず退部する人もいる。でも、僕はここで諦めてやめたらダメだろうと思って必死でした。

でも結局、2軍止まりでした。ただ、当時の部活の仲間は向上心が強く、生きる糧になっていると思います。また、母子家庭だったので学費とかも出してくれるなか、少なくとも野球くらいは最後まで頑張らないとという気持ちもありました。

野球についてもう少しだけお話をすると、僕の実力自体は全く叶う気はしませんでした。高校1年生の時には、自分の学年は44人も集まりました。地元のオールスター軍団。そんななかでレギュラーを取れるわけもありませんでしたが、野球部で学んだのは人間の基礎的な部分だったと思います。忍耐力、社会貢献、周りとどうつきあっていくのかなど学んだと思います。

古屋
日本の部活動は国際的にみても学校単位でやっていることに特徴があり、また多くの子どもが取り組んでいるということでとても大事な教育の場になっていると言われていますね。そんな野球部で思い出深いことはありますか?

木村
監督のことはいまだにリスペクトしています。理不尽でもあったけど、未だに覚えているのは、その監督は精神論が好きな方で、「眉毛は人格、瞳は力」という言葉をよく言っていました。眉毛を細くする高校生が多いので、そうするなということ。細くすると試合に出さないぞということでもありましたが、結局眉毛が細くても実力があれば試合には出し続けていたので理不尽でした(笑)。でも未だに覚えていられる名言のような言葉をたくさん聞きましたし、意志の力を感じました。

古屋
木村さんの原点となった野球部での経験を経て、18歳で就職を決めますね。大手包装資材メーカーに決めたとのことですが、それはなぜでしたか?

 

限られた選択肢のなかでつかんだ、ファーストキャリア

木村
大手包装資材メーカーに決めたのは、選択肢が限られていたということが大きいと思います。「給料」、「休みの多さ」、などの条件重視で選びました。

まず、校内選考があって、人気がある企業だと成績順になってしまいます。成績で落ちて面接も受けられないのは避けたかったので、自分の成績と条件との妥協点で選びました。そうしたら、第一希望で書いたのが自分しかいなくて、運よく学校推薦を得ることができました。

その前職の会社も毎年自分の高校からとってくれていたらしく、一次、二次面接を普通にやって、面接では自分のことを話していたら普通に入れました。

ちなみに、校内選考の際には第三希望まで出しましたが、全て工場勤務の仕事で出しました。事務職にいきたいなとも思っていましたが、男の事務職の求人がそもそも少ないんです。給料も基本給13万円とか14万円。事務職は楽そうで人気があるのですが選択肢がほとんどないんですね。

結局、第二希望が食品製造、第三希望が組立・溶接の工場。この3つを選ぶ際には、ハローワークにある200~300社くらいの高卒向けの求人票から選びました。この求人票は全部紙なんです。2つのファイルに入っていて、ひとつは県のハローワークがまとめている求人票。もうひとつは学校が企業から推薦枠を貰っている求人票。先生が、推薦枠が実際にあるかどうかを教えてくれました。
進路指導の先生は若い先生でしたが、色々なことを教えてくれました。

自分が一番覚えているのは、「自分が一番重要だと思うことを軸にして、どれを捨てていくか」が進路選択だということ。何を捨てるか、なんて考えたことが無かったので逆に新鮮で今でも覚えています。大手包装資材メーカーに入った時は、非日常的だったので楽しかったです。

研修期間が終わって実際に製造職で入ると、まず工場が40度近くになるのでこれがきつかったです。正直、これは仕事を続けていくのは難しいなと思いました。あと、会社の雰囲気が嫌でした。人は本当にいいのですが。働いている人の年齢層が完全に二極化していて、40代の中途社員の方々と高卒新卒から26歳までの若手でした。この中間が全くいないんです。何でも理由を聞いたら、全国の工場でも離職率が最も高い工場だからとのこと。

人間関係にはとても恵まれたものの、アナログな労働環境で、肉体的につらい面もありました。

 

3年後の自分が想像できず、1年弱で退職

古屋
最初の仕事や最初の上司はその後の職業人生に大きな影響を与えると言われます。これは勉強になった、良かった、といったことはありましたか?

木村
良かったことは全くありません(笑)。給料がいいといってもいっぱい残業して浮き出た金額なだけで、そこで自慢してもしょうもないなと。もっと稼ぐなら違う商売の方がいいなとも思いました。

やめるきっかけになったのは、3年ほどしたら部署異動を願い出ようと自分のなかで将来のキャリアを考えていたんですが、よくよく考えたら3年もこの仕事を続ける価値はないなと思ったんですね。3年間この仕事を続ける自分が想像できなくて。

そのころ、12月頃でしたね。遊びの用事で東京にいった時、高校時代の友達が自分なりの“選択肢”を見つけていたんです。これがとてもキラキラしてみえました。今の工場で働き続けてもその工場で働くスキルは上がるが、社会で生きていくスキルは上がらないなと思ったんです。

その友達は、同じ高校出身で就職希望だったのですが、ハローワークの求人票からは選ばず、「自分はこれがやりたい」ということを言い続け、現在は東京のベンチャー企業でやりたかったことを仕事にしています。同じ高校で就職した友人で唯一学校経由で就職せず、自分で就職先を決めた人間です。

そいつとその時に会ったときに、ハッシャダイのインターンのことを聞きました。この時にインターンの話を聞いていなかったら今僕は東京にいなかったと思います。

その時の僕自身は、もっと他に可能性があるだろうと思っていました。具体的には、別の地元企業への転職を考えていました。でも東京でのインターンの話を聞いて、転職して同じことを繰り返すことも嫌だなと思い、環境を変えて、周りの人を変えれば自分も良い方向にいけるんじゃないかなと。

自分の中では決まったものの、親からはめちゃくちゃ反対されました。「何も考えてこなかったのに、今仕事を辞める意味が分からない」と言われましたね。

結局、親は説得できませんでした。仕事を黙って辞めて、インターンの参加を申し込んで、そして事後報告です。それでも、「言っていることが全然伝わってこない」と言われましたが、最終的には「好きにやればいい」と言って送りだしてくれました。

やはり、親としては一年もたたずに仕事を辞めることに抵抗があったのだと思います。

古屋
誰にも相談せず、自分で退職を決めて自分で手続きもして。ひなの巣立ちのような気分で、親御さんは最後送り出してくれたのかもしれませんね。東京に来てどうでしたか?それとこれは皆さんに聞いているのですが(笑)、東京にきた最初の夜ごはんを覚えていますか?

木村
ハッシャダイのインターンに参加したんですが、当時YouTubeの動画の宣伝を通して、高校卒業後すぐに来た同期が多くいました。僕は社会人経験があったためか、同期の仕事に対する考え方がちょっとおかしいんじゃないかなと思ったんです。できなくても謝れない、改善してこないという。でも少し考えると、自分ももしかすると程度の問題で他の先輩方から見るとそうなのかもと思ったりもしました。

野球部のポジション争いも、工場の仕事も。無駄なことはひとつもなかった

古屋
もしかすると、初職が製造業だったことが影響しているのかもですね。日本の製造業の現場は国際的な水準にありますが、現場における改善活動やPDCAサイクルを回して生産性を高めるといった文化を1年弱の間に身に着けていたのかもしれませんね。先ほど「良かったことはなにもない」とおっしゃっていましたが(笑)、お話の端々からはむしろ製造現場で働いていた影響を感じます。

木村
そうかもしれません。全然そんな感触はなかったのですが、感覚的に体得していたのかもしれませんね。だとすると、無駄ではなかったのかな。

あと、最初の夜ごはんは、東京駅の地下のラーメン横丁でラーメンを食べました。味は全然おぼえていません。東京はどこに入っても美味しいですよね。ラーメンは長野だと新規開拓は失敗することが多かったので。

インターンのプログラムは、訪問販売営業でしたが自分はとても売れました。3か月間で最高で月30件は売れました。そのときに自分はPDCAをまわすのは得意だなと思いました。客観的にみて、自分のやり方を改善していく。さらに、その後3か月は電話営業をしました。こっちの成果は微妙でした。たぶん理由は本気度が全然違ったんだと思います。

実は、東京へ来る前に車で事故を起こしていて、70万くらい借金を背負ってしまいました。東京に来た時はそんなこんなで全くお金がなくて、「一日一食豆腐」生活だったんです。栄養価と値段で選んだら豆腐です。だから、訪問販売が売れなかったら豆腐しか食べられなくて、もしかすると豆腐も食べられなくて・・・。

母子家庭だったし飛び出て来ちゃっているので実家の援助も当然ありません。“飢え”の恐怖と戦いながら飛び込みで営業していたのは東京広しといえど僕だけだったと思います。だから売れたんですね。訪問販売である程度稼げて借金を返せたあとはやる気がなくなったので電話営業はダメだったんだと思います。

古屋
豆腐生活から脱出できて本当に良かったですね。木村さんは自分を客観的に見て得意不得意を把握して、得意を伸ばすためにPDCAサイクルをまわすことが上手なのかもしれませんね。そういう意味では、野球部時代のポジション争いやファーストキャリアの工場での経験が活きているのかもしれません。

木村
そうかもしれません。無駄なことは何もなかったのかもしれませんね。これまで出会った全ての人が今の自分を作っていますね。そしてまた、素晴らしい出会いがあって、この10月からはコンサルタントとして働いています。1年前の自分からは想像もつかないですね。

今後の目標は、中卒・高卒の就職者に向けてサービスつくっていきたいと思っているんです。やっぱり色々な苦労があるので。そしてもう一つ。将来起業したいという仲間がたくさんいるので、今の会社で学んだコンサルティングを活かして、ゼロスタートの企業へのサポートをしていきたいと思っています。

古屋
過去の経験が今に繋がって、今の仕事の延長線に未来の目標があって。とても素敵ですね。応援しています!

 

聞き手・書き手
古屋星斗

何にだってなれる/渡辺 玲央(非大卒人材 vol.02)

今回は、大学を1年で中退後ジャズミュージシャンを目指すも、大きな転機を経て、現在は大手IT企業でデータアナリストの仕事をしている、渡辺玲央さん(1995年愛知県生まれ)にお話しを伺った。

祖父の影響でジャズを好きになり、まだ見ぬ世界に興味を持った

古屋
(インタビューワー、本法人代表理事 以下、敬称略):渡辺さんは現在東京で、大手IT企業のデータアナリストとして働かれています。元々東京出身ではないとのことですが、いつ頃まで地元にいらしたのでしょうか。

渡辺
出身は愛知県の扶桑です。僕は3人兄弟の長男で、20才くらいまで地元にいました。5才くらいだったと記憶しているのですが、近くに住んでいた祖父の影響でジャズのCDに触れる機会があったんです。そこで幼いながらに衝撃を受けました。

僕はチャーリー・パーカーというアメリカのジャズミュージシャンに傾倒したのですが、まわりの友人とはジャズの話で盛り上がることができなかったのがさみしくて。色々調べると県内にジャズ部のある高校があることがわかり、その高校に進学したいという気持ちが芽生えました。それと、ジャズの本は洋書が多いので、原典を読み込むために英語力も必要だなと思い英語科を志望しました。

その後、無事志望していた高校に進学、ジャズ部に入部しました。部員は50人以上の大所帯で、僕はアルトサックスを担当しながら、ビッグバンドのバンドマスターという、リーダー的な役割を担っていました。

僕自身はもっとうまくなりたいという気持ちが強くて、毎日練習していましたし、土日は朝8時頃から夜まで一日中練習していても苦ではなかったのですが、周りの部員の意欲がさほど高くなくて、そのギャップが辛かったです。

古屋
希望通りの高校・部活に入っても悩みや葛藤があったのですね。学業のほうではどうでしたか?

渡辺
英語科だったので、外国人の先生による日本語禁止の授業や英語合宿などはありました。特に、ジャズ部の指導をしてくれていた外部講師の人は面白かったです。

生徒それぞれの個性を尊重してくれる人で、いろんな選択肢があるということを大人の視点からアドバイスをしてもらいました。「別に、入った大学で人生は決まらない」とか「一番できるヤツが手加減しないと組織は進まない」といった話をされたのを、いまでも覚えています。それがきっかけで、「色んな大人の話を聞きたい」と思うようになりました。

その後、父の友人で会社を経営している方の話を聞いたり、ジャズ関係の仕事をしている経営者の話を聞いたりして、お金やビジネスについて実体験に基づいたリアルな話を聞く機会が増えました。そのうちに「経済を学んでみたい」という気持ちが芽生えました。それで、大学では経済学部に行きたいと思い、地元私大の経済学部に進学しました。

退屈な大学を辞めて

渡辺
うちは父子家庭なのですが、僕が中学生の頃に父が病気を患い、大学を卒業できるかわからないなと、半ば覚悟の上で大学に進学しました。1年が経ち、期待していた大学生活とは程遠いことに憤りを感じていました。講義は退屈でしたし、周囲の人たちはサークルや飲み会と遊んでばかりで、僕は図書館とバイトを往復する毎日を送るようになりました。

このままいっても人生楽しくないんじゃないか、とか、自分自身何がしたいのかわからなくなって、金銭的なこともあり大学を辞めました。

古屋

大学を辞めるのは勇気がいることですよね。辞めてやりたいことがあったわけではないのですか?

渡辺

むしろ、大学を辞めないと道がないような気がしていました。かといって行先は決まっていなかったので、しばらくフリーターとして本屋やジャズバーでバイトをして生活していました。

内心では、プロのミュージシャンになれたらいいな、と思ったりもしていました。でも、バイト先のジャズバーでお客さんが一人しかつかないようなバンドがほとんどで、その一人が支払ったお金を店側と5人のメンバーで折半するという、厳しい実情を目の当たりにしていたので、「音楽で食べていくのは厳しいのだな」と現実を知りました。

ジャズで食べることを追及するのは、自分の人生として少し違うかな、とも思いました。

チャンスを求めて東京へ

古屋
ジャズバーでのバイト生活と、今のデータアナリストというキャリアが、あと2年で結びつくとは到底思えないのですが(笑)、何か転機があったのでしょうか。

渡辺
フリーター生活を1年近く続けていたある日、Twitterで「ハッシャダイ」という若者を対象とした学歴不問のインターンプログラムの広告が流れてきたんです。面白そうだな、と思って、インターンに参加するために東京に行こうと思いました。

古屋
そんな風に思い切れる人は珍しいですね。17万人いる高校生就職者の8割以上は地元の県内で就職しているデータがあるのですが、渡辺さんはそうではなく東京に出るという選択をできたのはなぜだと思いますか。

渡辺
今でこそハッシャダイのプログラムは有名になってきていますが、当時はまだ実績もなく怪しいなとも思いました。調べていくうちに、企業理念が自分の考えに近くて魅力を感じました。

例えば僕は、小学生の頃から義務教育に疑問を感じていたんです。学校の成績の良し悪しは、母親のサポートが十分かどうかや、塾に通っているか、先生から気に入られているかなど、副次的な要素も大きく影響すると思います。

勉強できる環境があれば成績が伸びるのは当然なのに、そこで人間としての優劣がつくかのような錯覚に違和感がありました。ハッシャダイは、大卒者と非大卒者の「選択格差」のない社会を目指していて、挑戦したい人は環境に関係なく誰でもいつでも挑戦できるんだというところが参加の決め手になりました。

上京初日は、同期の8人と渋谷の居酒屋で食事をしました。何を食べたかは全く覚えていないのですが、期待に胸弾み、ただ楽しかったのを覚えています。同期は今では3人しか残ってないんですけどね(笑)。

プログラムが始まってからは辛かったです。特に訪問販売の営業では、人間ってこんなに冷たくなれるんだなと。ネット回線や電話回線の販売で、テレアポしたり、個人宅をアポなし訪問したりするんですが、怒鳴られたり、警察を呼ばれたこともあって。精神的にも限界が近かったです。

もう辞めようかなと思うこともありましたが、同い年の社員の方が根気よく相談に乗ってくれたり、同期や先輩にも助けられながらなんとか半年ほど続けました。

会話が理解できないところからの出発

古屋
現在の職場に入社したきっかけは?

渡辺
ハッシャダイの取り組みがメディアに取り上げられたのをきっかけに、今の職場のGM(ゼネラルマネージャー)が関心を持ったようで、採用面接を通して僕が選ばれました。ジャズ部の話をはじめ、主体的に行動するところが評価されたのかなと思います。

古屋
現在のお仕事はいかがですか。渡辺さんはデータ分析の専門性があったわけではないと思いますが、はじめは大変ではなかったですか。

渡辺
仕事は楽しいです。もちろん経験もなかったですし、最初はプログラムもかけなかったので戸惑いも大きかったですが、周りの人に教えてもらったり、自分でも勉強しながら次第に慣れていきました。

最初の頃は、プログラムだけでなく、社内用語とか、よくわからないカタカナのビジネス用語とかが頻繁に会話に出るので、そもそも何がわからないというか、会話ができなくて困ることが多かったですね。みんな何語を話しているんだろう、と思っていました。

今の仕事は、美容や旅行分野のデータを活用してKPIを出したり、データ分析して、営業さんがクライアントさんと会話する際の資料の元ネタとして活用されています。自分が分析したデータに対して、営業の方や部内の先輩などからフィードバックを貰うことや、「あのデータ、クライアントさんに刺さったよ」と喜んでもらえることが嬉しいです。

いつからだって、なりたいものになれる

古屋
今後の目標ややってみたいことなどはありますか?

渡辺
ずっと今の会社にいるかはわかりませんが、少なくとも今の職場でGM(ゼネラルマネージャー)になるくらい成長したいと思っています。自分のようなキャリアの人はほとんどいないので、まずは今の会社に認められたい。そして、データを活用して世の中の課題解決をできるようになりたいですね。

もう一つは、非大卒のコミュニティを作りたいと思っています。慶応大学の三田会など、大学によってはOBコミュニティがありますが、僕のように非大卒で大手企業に勤めている人は圧倒的にマイノリティ。孤独でもあります。

後輩たちのロールモデルになるためにも、GMを目指したいと思っています。とはいえ、不安なこともたくさんあります。今年も新卒が入ってきて、大卒入社の人たちは僕と同い年が多いのですが、彼らと比べると僕はデータ分析に関する専門的な勉強を何もしてこなかったので、このままでは負けるのではないかと不安になったりします。でも、僕にしかできないことで勝負していかないと、と思っています。

僕は、人は、いつからだって何にだってなれると思っていて、僕自身もともとデータアナリストになりたかったわけじゃないのですが、色々な人の影響を受けながら、こうして今の自分がいるように、僕の行動が、いつか誰かに良い影響を与えられたらと思っています。

自分で考え、自分で選ぶ/奥間 蓮(非大卒人材 vol.01)

古屋(インタビューワー、本法人代表理事 以下、敬称略):
今、コンサルタントとして東京で働いている奥間さんですが、その前は東京のベンチャー企業でインターンをしていて、さらにその前は大阪でとび職をやっていたと聞きました。22歳の日本人としては、異色のキャリアだと思います。地元の新聞やWEBメディアなどでも、奥間さんの経歴について取り上げた記事がアップされているのもうなずけます。

今日はそんな奥間さんの“原点”、“転機”と“悩み”を聞きたいと思っています。今、奥間さんがここにいる。その最初の引き金になった体験ってなんでしょうね。

人生を変える授業に高校で出会う

奥間
沖縄の高校出身だったのですが、青年海外協力隊で発展途上国への支援活動をしていたスタッフが活動の様子を放課後に話をしに来たことがありました。今思えばあの課外授業で話を聞いたことが自分の人生を変えるきっかけになったと思います。

高校一年生まで本当に全く勉強をしたことがなかった僕でしたが、その話をきいてからは、「自分もこの人みたいに海外へいって社会貢献をするんだ!」と思い、それからは“英語だけ”を勉強し始めました。あの人のようになりたい。その一心で、be動詞から勉強を始めたことを覚えています。

高校三年生に上がるころ、大学に行く選択肢が自分の中にはありました。しかし、知っている先輩で大学に行っている人を見ても、毎日クラブへ行ったり、コンパをしたりと、大学に行かなくてもできることをしているだけ。ならば自分の夢の最短距離を目指そうと思い、海外の大学への留学を前提とした語学学校に通おうと決めたのです。

その学校は大阪にあったので、日ごろはオンラインで授業を受け、月に1、2度は大阪に飛行機で行っていました。今まで出たことがなかった沖縄。月に1回であってもそこから出るというのは自分にとって大きな挑戦でした。

人生最大の転機

奥間
何か月か過ぎた頃。父の知人で大阪に居住する方が、苦労して飛行機で通学している僕のことを聞きつけ、「うちで預かっても良いが」と父に連絡をくれました。

その話を聞いた僕は、悩みました。それは、身一つで沖縄を出る、という決断でもあったためですが、最大の理由は我が家の家庭環境にありました。我が家は8人兄弟です。

上に二人の姉がいますがすでに家を出ています。自分が長男であり、弟・妹たちの面倒を見るのは自分だ、自分が家を出たら誰が5人の弟・妹の面倒を見るんだ、という気持ちがあったのです。

その時一番下はまだ、小学1年生でした。話を聞いてから数時間は本当に迷いました。でも、考えれば考えるほど今諦めたらこの先もこのまま何にも挑戦できなくなっていくだろうなという気持ちが強くなりました。

元々、考えることがそれほど得意じゃなかったんです(笑)。だから、直感的にこの強くなっていく気持ちはホンモノだろうと(笑)。

でも、人生も家族もかかっているので、セカンドオピニオンを求めることにしました。すぐに、友人たちを呼んで聞いたんです。でも聞いた時点で自分のなかでは答えは出ていましたね(笑)。

奥間
友人たちは自分がやりたいことをやった方がいいと応援してくれました。あの夜の光景は、今でも4Kテレビのように、鮮やかに思い出すことができます。

古屋
高校一年のとき課外授業で聞いた話へのワクワク感。一度きりの人生だし、それを追いかけてみようと思ったのですね。新天地での暮らしはどうだったのでしょうか。そしてその後留学はできたのでしょうか?

“あと残り2か月”で留学をやめる

奥間
大阪へ行ってからは、月に一回の通学ととも下宿していた家の子どもから“とある仕事”をやってみないか、と紹介されました。それは、“とび職”でした。皆さんは鳶のしごとにどのようなイメージがあるでしょう。仕事がキツそう?上下関係が厳しそう?僕がお世話になった職場は、仕事内容は肉体労働だけに厳しいものでしたが、人に恵まれていたのもあり、皆さんがイメージされているような、過酷で厳しいだけのものではなく、とても充実したものでした。

親方もガンガン突き進むというよりは、冷静でクールな人。憧れでした。仕事が終わったあと、月に一回は大阪のまちに美味しいものを食べに連れて行ってくれたこと、特にその時に食べた焼肉の味は一生忘れないと思います。

そんななか月に1回通っていた学校では12か月の座学プログラム後に留学に行くことになっていました。座学プログラム終了があと2か月ほどに差し迫るタイミングで、海外留学するには莫大な費用が必要になるという“事実”と“自分の現実”を目の当たりにして、留学を諦めざるを得なくなりました。

入りは留学の為の資金集めの感覚で始めたとび職でしたが、その後結局丸々2年間ほど勤めることになりました。今でも親方は人生の恩人だと思っています。

一人きりの上京

古屋
なぜ東京に来ようと思ったのですか?東京での最初の日、どんな気持ちで何を食べたか覚えていますか?(笑)

奥間
東京に来ようと思ったのは、渋谷にある、とあるベンチャー企業の採用担当の方とTwitterで繋がったのがきっかけでした。たまたまその会社との出会いがあり、上京することになった僕ですが、先にお話したとおり、もともとは海外にいきたかったので、実は最初は、東京へいくことには全く興味がありませんでした。

大阪で人と仕事に恵まれ、それなりに楽しく過ごしていたので。でも、ふとした瞬間に自分の将来について考えることが多くなっていたのも事実でした。

そんな中で、東京へこないかという誘いを受け、本来自分がやりたかったことは何なのかを考えこむようになりました。僕にも自分の人生をこれまで自分で決めてきた、自信というか思い上がりかもしれませんが、思いがあります。自分の可能性を信じたい。一から新しい環境に飛び込んでみたいと思い、やっぱり今回も一時間ほど悩んで(笑)、上京を決意しました。

初めて東京にきたときは、テレビでしかみたことのない渋谷の街を観光したあと、インターン先の仲間たちと、想像もつかない今後の生活を楽しみにしながら、もんじゃ焼きを食べました。味は覚えていませんが・・・。

古屋
東京でまわりに友人もおらず、どんなことに苦労していますか。

奥間
友人がいない環境でという点では、地元沖縄を出た時と同じでしたし、スマホを使えば遠くにいる友人とも連絡がとれたのでさほど寂しくもなく、その点ではあまり苦労はしていないと思います。

あえて言うのならば、電車のない沖縄で育った僕は、東京の満員電車に苦労しています。今は千葉方面から都心に向けて通勤していますが、“沖縄時間”の自分にとっては、この電車が最大の苦労です。

自分はこれまで“考える”ことがなかったのかもしれない

古屋
今のしごとはどのようなことをしていますか。そして大変なことは何ですか。

奥間
今は、経営支援を行う会社のアソシエイトとして、ベンチャー企業のIPO準備支援や組織再編、経理などの事務関連など様々な事をしています。僕が、しごとをしている中で一番大変だと感じることは、“考える”ことです。

当たり前のことですが、自分は今まで本当に“考える”ことをしてきたんだろうか、といつも思います。高校生までの自分は流されるだけだったんじゃないか、と。東京に来てできたチャンスを失わないように、今の自分にできることは何かを考え続けることを常に心がけています。

一度きりの人生、挑戦しよう!

古屋
奥間さんの長い職業人生のファーストキャリアを語って頂きました。最後に、自分たちより少し下の世代の、例えば自分の高校の後輩と真面目な話をする機会があったら、どんなことを話したいですか?

奥間
そうですね。下の世代の方と話をするなら、「就職や進学などの大きな選択をするときには、家庭環境や学校、地元のコミュニティのしがらみなどでネガティブに迷うこともたくさんあるかもしれないけれど、一度きりの人生だから自分がしたいことに挑戦するべき」だという話をしたいですね。

僕自身は、まだまだ何も成し得てはいませんが、今までの人生では、自分で決断し、挑戦してきたからチャンスが巡ってきていると思っています。

古屋
自分で決めたことによって、強い動機付けがされ、成功に繋がる。「自己決定理論」という考え方が心理学の世界にありますが、奥間さんが決断してきたことが今の結果に繋がっているのは間違いないと思いますよ!本日はありがとうございました。

 

聞き手・書き手
古屋星斗