「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した③

富山県の製造大企業の工場勤務から社会人生活をスタートした竹田将宏さん。働く中で積もる「違和感」を振り払うために、一歩を踏み出し、現在は東京のITベンチャーで活躍しています。一歩を踏み出す前、そして踏み出した結果。お話からどんなことが見えてくるのでしょうか。今回は、そんな竹田さんのキャリアストーリーを聞いていきたいと思います。

前回 「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②

「日々のつまらなさ」を変えたい思いで一歩踏み出す

古屋
竹田さんはハッシャダイでインターンをされていますね。こちらはどういったきっかけで参加しましたか?

竹田
ハッシャダイに参加したきっかけはシンプルでした。まず前職で初めて社会というものを知りました。その中で自分の価値、特に報酬の低さ、周りの人との考え方の違い、こうした違和感からくる「日々のつまらなさ」。

これを変えたいと思っていました。変えるにはまず、自分が成長しなければいけない、視野を広げなければいけない、もっといろいろな社会人の話を聞いてみたいと考えていました。

そんな時にネットサーフィンをしていたら、たまたまハッシャダイのHPを見つけ、このインターンであれば自分の思っていることを実現できるのではないかと思い、ハッシャダイのインターンに参加しました。

もちろん、環境を変えてやったことの無いことを知らない人たちと行っていくリスクはありましたが、どう転んでもいい経験にはなるだろうと思っていたので、参加に迷いはなかったですね。

転職した会社を1週間で辞職、「ただの高卒」として自力で就活

古屋
「どう転んでも」良い言葉ですね。キャリア初期の失敗は、職業生活全体で見たら成功だとも言われています。さて、ようやく現在に近づいてきました。インターンを経験して、今の会社に至るまでについて聞きたいです。

竹田
インターン卒業後、ハッシャダイ経由でサイト制作・リスティング運用の受託会社に就職しました。ただ、なんとその会社を1週間で辞め、普通の高卒として再度就活をすることになりました。

辞めた理由は単純で、その会社が生産性が悪い上に、PDCAも回せていない。だから、長時間働くのが当たり前。そこに美学を感じている宗教の様な集団だったからです。

そこで、次はハッシャダイのサポートもなく就職活動に臨みました。やはり成長を軸に置いた時に、組織形成・事業拡大を自分でやってみたいと思い、ベンチャー企業にひたすら会いに行っていました。

古屋
自力の就活ですね。すごい。

竹田
そんな中で前職のLimeというフィットネス×ITの会社に出会いました。そこは正社員が3名で業務委託含め10人以下の組織でした。創業から間もない会社なのに掲げるビジョンは大きく、裁量もあったので入社させていただくことになりました。

そこでは営業から始まり、店舗運営店→舗責任者→メディア運営→メディア運営責任者→人事など幅広く経験させていただき、最終的には取締役になることができました。

投資に関しての業務も、経理までもやりました。Limeでは組織、事業が大きくなっていくのを経験し、かなり濃い1年間になりました。そして、ちょうど今年の4月に次のステップに進みます。

冒頭でお話しをした「日本をぶち上げる」をビジョンに掲げた、チャットボットによるマーケティング会社ZEALSの社長と繋がり、ジョインさせて頂きました。

挑戦するのも成果を出すのも全ては自分次第

古屋
今のお仕事で大変なことはどんなところでしょう。

竹田
ジョインして少し経ち、今は営業をメインで業務をしてますが、ビジョンがめちゃくちゃ強い会社なので、みんながビジョンを実現するためにがむしゃらに走っています。

その分、現状の生産フローの課題解決や仕組み化ができていないところも多いので、そこの仕組み化も、前職の経験を生かして取り組んでいます。ただ、まだ把握できていないことも多くてまだまだ苦労しています(笑)。

古屋
ありがとうございます。ラグビー部時代、YKK時代、そしてLime時代、すべての経験が今に生きていますね。未来に向けて目標のようなものはありますか。

竹田
自分は、社会に名を残したい、影響を与えることをしたいと思っています。ただ、仕事をこなすだけであったり、誰でも歩めるような人生を歩んだりは絶対にしたくありません。

そう考えた時に現職のビジョンを叶えることが、中長期的な目標になりますね。「日本をぶち上げる」これが実現した世界を感がるとワクワクしますね。

古屋
ありがとうございます。最後に、竹田さんの後輩にあたる高卒人材の方々へのメッセージを一言頂けますでしょうか。

竹田
結局は自分の人生なので、自分が一番責任を持たなければなりません。言い訳するのも逃げるのも、挑戦するのも成果を出すのも全ては自分次第です。

高卒とか大卒とかそんなことでネガティブになる人は言い訳をしているだけです。逆に学歴で満足している人も、たかが知れています。くだらない思考は捨てて、皆さんがそれぞれ思う最高の人生を歩んでいただければと思っています。

古屋
自分の人生。当たり前のことですが、終身雇用が無くなる中、今の若い世代が「自分の人生」を生きる最初の世代になるかもしれませんね。ありがとうございました!

 

竹田将宏さんインタビュー記事一覧

「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した①
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した③

「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②

富山県の製造大企業の工場勤務から社会人生活をスタートした竹田将宏さん。働く中で積もる「違和感」を振り払うために、一歩を踏み出し、現在は東京のITベンチャーで活躍しています。一歩を踏み出す前、そして踏み出した結果。お話からどんなことが見えてくるのでしょうか。今回は、そんな竹田さんのキャリアストーリーを聞いていきたいと思います。

前回 「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した①

違和感しかない「就職活動」

古屋
「イメージを変えてしまう」とても興味深いです。天井を自ら壊すというか、到達点をしっかり見て、それをモチベーションにしていたのですね。竹田さんはその後、高校を卒業して大手メーカーの工場に就職していますが、就職活動はどんな感じでしたか?

竹田
実は、就職活動は特にしなかったんですよね。部活のみの生活で今後どうしようかは特に考えていませんでした。道としては、大学に行くか、就職するかの二択の中で、就職を選択したのですが、理由は単純でお金を払ってまで4年間も使い勉強したいことがなかったからです。

それなら就職して無難に稼いで生きていければいいかなと。なので少しでもお金が稼げて安定している会社に就職出来ればいいと思い、先生の提示してくれた大手メーカーに就職しました。

なので大学生のような「就職活動」は特にしなかったです。学校にある求職リストから選びました。

古屋
求職リストは紙でした?何枚くらいありましたか?

竹田
紙でしたね。リストは辞書みたいに何百枚もありました。業務内容もざっくりしか記載されていないですし、説明もないのでイメージはつきませんでした。

とりあえず休みと給与とネームバリューで選びました。働いた後から振り返ってみると違和感しかないですよね。

古屋
そうですね(笑)。3年生の7月とかに会社見学はいきましたか?

竹田
会社見学っていうんですかね?数日の職場体験はありました。ただその時は就職した会社ではなく別の会社に体験に行きました。

古屋
どんなことをしました?

竹田
工場のライン作業を基本は見ているだけで、体験ではライン作業の製品の設置などを体験しました。あとは社員の方と話したり、会社説明してもらったりとかですね。その会社の方はかなり良い方々でしたね。

古屋
いい機会ですね。そんな良い方々のいる会社に行かなかったのはなぜでしょうか?

竹田
正直迷いしました。ただ、やはり体験の期間が短すぎて会社への理解の度合いが低かったのです。企業のイメージが無かったので、その時は大企業の方がキラキラして見えたのかもしれません。

あとは、よく知られた会社のほうがいいかもと思いました。大学生みたいにいろいろな会社のインターンがあり、社会を知れて、いろいろな会社が見られれば、また、この時の選択も変わっていたかも知れませんね。経験と情報が圧倒的に足りなかったです。

YKKに就職。今だから気づけた“ある人”の凄さ

古屋
そうなんですね!そんな中、選んだ会社はYKKという誰もが知っている超大企業ですが、なぜその会社だったのでしょう?

竹田
まず前提として他県に行く気がありませんでした。そもそも他県で就職を選択するという選択肢が自分にありませんでした。

そのため富山県で就職するという選択肢の中で、一番大きな企業がYKKだっただけです。理由は単純ですが、本当にそれだけですね。

古屋
そんなYKKでの仕事はいかがでしたか?

竹田
YKKでの仕事は単純でした。さすが大企業だけあって、機械のオペレーションをするだけでした。私はその中で染色課というところに所属していました。

そこでは染料の計測や染める素材の種類や量を、発行される伝表通りに用意し、機械を動かすという仕事です。単純作業なだけあって、どれだけ効率よくできるか、楽に仕事ができるかだけを考えていました。

今思うと時間の意識やタスクの組み立て方はその時に染み付いた気がします。それとその当時疑問だったことがあるんですよね。

古屋
おお、それはなんでしょうか。

竹田
与えられた仕事をこなすだけの人が多い職場の中で、ただ1人だけ主体性と責任感のある人がいました。彼は評価されるわけでも、誰かが見ているわけでもないのになぜ文句も言わずに誰よりも頑張れるのか。

それがその当時は疑問でした。今考えると価値観の違いであったり、リーダーシップが大きな要因な気がしています。私はその当時「自分」というものを軸に捉えていました。

楽しめるか、楽できるか、 評価される全てに「自分」が付いていました。彼は物事を考える時に「自分」を優先していなかったのではないかと思っています。

彼は「組織」というもので捉え、 組織全体の結果や生産性を意識していたのではないかと。だから自分の業務以外でも 積極的に取り組むし、評価されなくても、組織の結果が出ていれば満足していたのかなと。

物事を考える時にどの目線から捉えるか、これってかなり重要だなと思っています。ただの従業員という思考でみる会社の景色と、自分が課長だったら、部長だったら、社長だったらで思考する会社の景色ってまた違うと思うんですよね。

古屋
今、竹田さんがいろいろなお仕事を経験してきたからこその気づきですね。

竹田
そうかもしれませんね。YKKでの仕事は単純な作業と変化のない日々が多かったですが、それって自分の捉え方や考え方次第では、また違ったものになっていたような気もします。

ただあの当時の僕が感じたことは マイナス面が多かったので、かなり未熟だったんだと思います。

古屋
同じことをしていても捉え方によって意味が変わってくる。「ジョブクラフティング」という考え方があります。同じ「掃除の仕事」であっても、単なる清掃作業と捉えるか、もしくはお客様をもてなすためのエンターテインメントと考えるか、それによってスキルや気持ちが全く違ってきます。

今振り返ってそういった気持ちになっていることは素敵だと思います。

竹田
「ジョブクラフティング」ですか。そのような言葉があるのですね。知りませんでした(笑)。

 

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「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した①
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した③

「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した①

富山県の製造大企業の工場勤務から社会人生活をスタートした竹田将宏さん。働く中で積もる違和感を振り払うために、一歩を踏み出し、現在は東京のITベンチャーで活躍しています。一歩を踏み出す前、そして踏み出した結果。お話からどんなことが見えてくるのでしょうか。今回は、そんな竹田さんのキャリアストーリーを聞いていきたいと思います。

古屋星斗(一般社団法人スクール・トゥ・ワーク代表理事、以下省略):
今日はよろしくお願いいたします。竹田さんのこれまで、今、これからを伺いたいと思っています。まずは「今」からですが、竹田さんは今どのようなお仕事をされていますか?

竹田将宏さん(以下敬称略):
今年の4月にZEALSという「日本をぶち上げる」をビジョンに掲げた、チャットボットを使ったマーケティングの会社にジョインさせて頂きました。ジョインして今は営業をメインで業務をしていますが、ビジョンベースドな会社なので、みんなが共通のビジョンを実現するためにがむしゃらに走っているところです。

古屋
チャットボットとは、今まさに流行りのテック企業ですね。現在の話は後程もっとお伺いするとして、これまでどのようなキャリアを送ってきたのかを伺いたいと思います。高校時代からお願いします。

「PDCAサイクル」をラグビー部で学ぶ

竹田
高校時代はほとんどの時間を部活動のラグビーに費やしていました。部活のために学校に行っていたようなものなので、授業中は疲れて寝る。夕方から夜にかけてはずっと部活動。そんな生活を繰り返していました。

なので、よくいる部活大好き少年って感じでしたね。高校は富山県にある工業高校でした。私はその高校で機械科にいました。工業高校ということもあり、男子が大半でしたので常に騒いでいる感じでした。部活に力を入れている学校だったので、周りの人も勉強よりも部活という人が多かったです。

古屋
部活大好き高校生だったんですね。竹田さんはラグビー部ではどんな部員でしたか?

竹田
ラグビー部では結構怖い存在だったかもしれません。熱くなるタイプなので先輩後輩関係なく、何でも発言していました。色々と言いすぎて時には顧問から怒られることもありました。

その時の自分はどう伝えるのが最善なのか、相手から最大限の力を引き出すにはどうすれば良いかなど、特に考えられていなかったのかもしれませんね。

古屋
部長などのリーダーのような感じだったんですか?

竹田
どうなんでしょう?今思うとそうかもしれないです(笑)。1年生の時から試合には出場してたので、先輩とか関係なく色々言えたのかもしれません。

古屋
1年生のときからチームを引っ張っていたんですね。そんなラグビー部時代に、一番印象深い出来事はなんですか?

竹田
一番印象に残っているのは1年生の時に行った遠征ですね。ラグビーは未経験で高校から始めたのですが、その遠征で初めて3年生の試合に出ました。ここの試合で色々思うことがあったんですよね。

この遠征はまだ競技を始めて3ヶ月ぐらいの時でした。そのころはルールもまともに知らないので、とりあえず先輩のプレーやプロ選手のプレーをひたすら真似することに徹底していました。

家に帰ると必ずラグビーの試合を見ていましたね。完全にラグビー一色の生活です。そこでイメージしたプレーをひたすら実践し、反省し、実践し・・・これを繰り返していました。もちろん基礎も教えてもらいながらです。

その当時は全くPDCAなど言葉も知りませんでしたが、今思うとこのやり方自体は、ビジネスにも生かせるような理にかなった練習をしていたなと思っています。だからなのか、周りよりも早く伸びたようでした。

古屋
部活でPDCAサイクルを回していたんですね。

竹田
恰好よく言えばですが(笑)。遠征の話に戻りますが、その甲斐あってかは分かりませんが、顧問の先生が競技を始めて3ヶ月の僕を3年生の試合に出してくれたのかなと思います。

ただ、試合では全然プレーの流れや自分が何をすべきかが分からなくついていけませんでした。この試合は自分のイメージしていた試合より、はるかに上回ったものだったということです。

大抵のことはイメージできれば実現させることができます。自分が、この遠征で全くついていけなかったことで、早いタイミングで自分の中のイメージを変えることができたのはその後のラグビーにかなり生きていたなと思います。

この時のこういった早いタイミングでハイレベルな経験をしてしまって自分のイメージを変えてしまうという思考は、現在にも生きているような気がしています。

 

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「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した①
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した②
「日々のつまらなさ」・・・変えたい思いで一歩踏み出した③

「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 後編

工藤理世菜さんは東京都出身の21歳。大学を1年で中退したのち、大学時代からインターンシップをしていた職場で正社員として、なんと大学生向けのファシリテーション講座を主催しています。インタビューでも心を動かされる言葉がたくさんありました。

前回 「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 中編

偶然のようで必然

古屋
今の仕事で、大変なこと、楽しいことなどお話聞きたいです。

工藤
大変なのは、勉強法が分からないことですね。自分にあった勉強法がわからない。テキストへの向き合い方がわからないんです。

例えば、仕事上でカラーコーディネータの資格を取ろうとしたときに、勉強して記憶することができない。何から手をつけていいか分からないのですね。

少なからず、大学受験やテストに向けた勉強をしている人は自分なりの方法を身に着けているので違うのかなと。

うれしいのは、一緒に作り上げたものを大学生に講座として届けて一通り終わったときに、大学生は泣きながら「この講座受けてよかった」、「みんなで同窓会したいね」と言っていたんです。

自分の力で、コミュニティを作り上げていけることを体感するときに、そういう機会を作り出せたのが本当にうれしいです。出会いは偶然のようで必然なので。

また、高校生に授業をするときに「どんなことをやりたいの」と聞いて、「本当にやりたいことってなんだろう」と話をして、次のアクションにつながることに携われた時もとてもうれしいですね。

特に、Foraの方々は、「できないなら色々な人と一緒に作っていけばいいじゃん」「まずはやってみたらいいじゃん」となるので、とても前向きに取り組むことができています。

代表の藤村さんにはとてもお世話になっています。「学歴無いから」と不安をつぶやく自分の相談にずっとのってくれました。「理世菜はできる」と言い続けられて。できるまで付き添ってくれました。

「学歴」を手放すことで得たもの

古屋
周りの人の支えが、自信につながっていますよね。工藤さんにとって、一番大きかった決断はなんだったでしょう?

工藤
いろいろありますが、やはり、去年大学に行かないという決断をしたことです。その決断にも色々な出来事があり、大きかったのは法政大学の安田先生に「あなたは、それだけやりたいことがはっきりしているんだから、大学じゃなくて、大学院じゃない」と言われたことです。

「大学に行かない」と割り切った瞬間から、自分のやりたいことに全力コミットができるようになった。「本気で向き合えるようにしたいときに、何かを手放す」ことがとても大事だと思いました。

でも悩みました。「〇〇大学に行っています」、という学歴がある自分と無い自分とを比べて想像して。学歴が無いというだけで自分は劣っていると感じることもあり、焦りもあったんです。

でも、経験を積んでいくことで「そんなに変わらないのでは」と思えてきています。

古屋
5年後はどんな姿でいたいですか。

工藤
学校の先生とつながっていたいです。ファシリテーション講座を学校の先生にやりたいです。先生のファシリテーション能力はとても高いけれど、自覚していない先生も多いので、その先生方のノウハウをベースに若手に継承していきたいですね。

ベテランの先生と若手の先生をファシリテーションでつなぐというような。

古屋
どんな職場も、世代交代がうまくいかないことが悩みですから、教育現場にとってもとても意味のあるものになりそうですね!

では、最後に、若い世代の方々へのメッセージをいただけますでしょうか。

工藤
「こうじゃないといけない!」というのは単なる思い込みのことがあります。何かしてみたいということが見つからなくてもいいから、まずは一人話せる人を見つけて、自分の思いを語ることが大事だなと思います。

「何もやりたくない」と言っている高校生に「寝るのは好き?寝心地のいい枕があったら良くない?」と言ったらとても盛り上がったこともあります。

自分から勇気を出して話せば、「好きなこと」、「やりたいこと」は誰にも絶対にある。何でもいいので、好きなことについて一つ調べてみようと。それが伝えたいことですね。

古屋
「自分の思いを語ること」・・・劇団や討論会、そして今のお仕事で人の前でお話したり表現することを積み重ねて来られた、工藤さんらしいメッセージですね。本日は、ありがとうございました!

 

工藤理世菜さんインタビュー記事一覧

「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 前編
「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 中編
「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 後編

「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 中編

工藤理世菜さんは東京都出身の21歳。大学を1年で中退したのち、大学時代からインターンシップをしていた職場で正社員として、なんと大学生向けのファシリテーション講座を主催しています。インタビューでも心を動かされる言葉がたくさんありました。

前回 「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 前編

本人:写真右下

デフォルトで「先生になるんだ」と思っていた

古屋:
劇団もやっているのですよね?

工藤:
そうですね。母親がミュージカルダンサーだったこともあり、演劇を高校生からやっています。高校2年に先輩が劇団を立ち上げた時に一緒に参加しました。

劇団ファミリアという名前です。そんなこともあり、人前に立って思いを伝えようとするというのを大切にしていますね。

古屋:
高校時代にお世話になった先生はいますか?

工藤:
大好きな先生がいました。1年生のときの担任ですが、自分の人生を変えてくれた先生です。私は小中といじめられていたので過去を振り返るのが怖かったんです。私の高校には「人間学」という授業がありました。

「人間とは何か」からはじまる変な授業なんですが、いろんな価値観を知るということをやります。その担任の先生はその授業も担当してくれて、「アイデンティティの確立」という授業があって、自分自身を見つめなおすのが恐怖だった自分は向き合えなかったんです。

そこで、その担任の先生が夜、帰宅時間の19時30分までずっと聞いてくれたり、ホワイトボードを使って書き出してくれたとか、一人の人間として向き合ってくれたんです。

その先生がいなかったら過去と向き合えなかっただろうし、今の自分はなかったと思います。特に、「本当のお前はどうなんだ」と良く聞かれて、それはすごく記憶に残っています。

古屋:
素晴らしい先生に出会って、素晴らしい経験もして、そして大学に入学したんですね。

工藤:
そうですね。もともと大学に行こうと思ったのは、幼稚園のころから祖母から「公務員になりなさい」と言われていたことがあります。「先生になれ」とも言われていて、高校2年までデフォルトで「先生になるんだ」と思っていたんです。

でも高校3年生頃から、ブライダルプランナーになりたい、企画づくりで人の幸せを形にするのが好きだから、と思い出して。だから、先生にもブライダルプランナーにもなれる学校としてフェリス女学院に入学しました。

OGにブライダルプランナーが多くて、教職も取れたんですね(笑)。そうして、キャリアを考えたうえで大学は絶対行くものだと思っていたんです。

大学にいかないとその先のキャリアがないと思い込んでいて。高校から奨学金を借りていたんですが、大学も借りました。それでも抵抗はありませんでした。

本人:写真右中段

社会人大学院にいきたい

古屋
大学時代はどうでしたか?

工藤
大学に入ってすぐはキラキラした女子大生生活を想像していました。しかし入ったら、授業は眠い、みんな寝ている。やっぱり「自分のやる気があればまわりなんて関係ない」訳ではないですよね。

だから、落ち込みました。単位も一生懸命とっていたけど、辛い授業、なんでやっているかわからない授業は全くやる気も出ずギリギリ出席でギリギリ単位だけとっていました。

大学には何とか1年は行っていたんですが、結局学費が払えないという話になってしまい退学に。その後、2年間は入学金半分で再入学できると言われましたので、当時は大学にすぐ戻る予定でやめたんです。

ただ、去年の6月に自律神経失調症になって、頑張らなくてはならないプレッシャーで3か月くらい休んだことがありました。そのときに、大学になぜ行くのか、と思い直しました。

Foraにいて、学校の先生ができる部分とそうでない部分がはっきりとわかってきましたし、そこに関わることの楽しさを知ったので。なので、大学時代から2年くらい働いていたForaで正社員に誘っていただけたので半年前から正社員として働いています。

古屋
2年インターンシップをした職場で、いま正社員として働いている、というような感覚なのですね。アルバイトもたくさんしましたか?

工藤
たくさんやりました。高校時代から、ドラッグストア、寿司屋、塾の講師、ステーキ屋さん、イベント会社とやってきました。最初のドラッグストアが一番楽しかったですね。社会にはじめて貢献できた気がしました。

寿司屋では、店長が一回きてくれたお客さん、ボトルをキープしてくれたお客さんの名前を顔を見ただけで絶対に当てるんです。これがすごくて、何とか自分も覚えたいと思って。

ラベルと顔を交互に何十回も見て、顔のイラストも描き、そして自分もボトルキープしたお客さんの名前を呼べたとき、それで喜んでもらえたときはめちゃくちゃ嬉しかったです。

古屋
そのアルバイトと並行して、Foraでも仕事をしていたのですよね。

工藤
そうですね。Foraも、最初は就職するつもりは全くなかったんですが、去年の11月に大学を行かないと自分で決めて、はじめて正社員を意識しました。大学も、大学院に社会人入試で入学すればいいと思っていますし、何年か後には社会人大学院に行きたいと思っています。

なんとなくの大学の4年間って若い時期で一番多感な時期で、一番吸収できる時期、なのに漫然と通ったら本当にもったいないと思って。若いというだけでいろいろな出会いが貰えますし。

 

工藤理世菜さんインタビュー記事一覧

「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 前編
「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 中編
「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 後編

「本気で向き合いたいときに、何かを手放す」こと 前編

工藤理世菜さんは東京都出身の21歳。大学を1年で中退した後、大学時代からインターンシップをしていた職場で正社員として、大学生向けのファシリテーション講座を主催しています。インタビューでも心を動かされる言葉がたくさんありました。

“自力で”見つけた就職先

古屋星斗(一般社団法人スクール・トゥ・ワーク代表理事、以下省略):
本日はありがとうございます。工藤さんは現在21歳ということですが、まず、今どんなお仕事をしているのか教えてください。

工藤理世菜さん(以下、敬称略):
よろしくお願いします。現在は、一般社団法人Foraという団体で正社員として働いています。Foraでは、大学生に対するファシリテート講座の講師やマネジメントなどを行っています。また、劇団で役者や、シンガーソングライターとしての活動も行っています。

古屋
いきなり21歳にして、多彩な経歴でびっくりしておりますが、そんな工藤さんのこれまでについて伺っていきたいです。

工藤
私は東京都大田区の生まれで、4人兄弟です。兄、姉、自分、妹。家族の話だと、兄はミュージシャンをやっていたりします。両親は私が幼稚園のときに離婚し、母親がダンススクールを経営しながら、祖父母が家にいてくれて育ててくれました。

学校は、小中学校が公立。高校は私立に通いました。大学にも一年間通っていたのですが、金銭的な問題で退学せざるを得なくなり、やめています。

古屋
高校生のときはどのようなことに力を入れていましたか?

工藤
高校は、私立の中高一貫女子高だったのですが、大学の指定校推薦に流れる人たちが多く、「なんとなく決めている」感じがしていました。私は大学に進むにあたって、自分自身のキャリアの悩みとかを話し合う機会が必要なんじゃないかな、と思いました。

そこで、社会人の方を高校に招いて企業が抱えている課題点を開示して、その課題について高校生がディスカッションや討論をする活動を始めようとしました。

その討論を通じてキャリアの話もできるし、高校生たちが解決策を考えてプレゼンをすることで、企業の方にとっても想像力を貰えるというプログラムです。

そのプログラムを実行に移そうとしたときに、高校の先生に「既存の団体を見たほうがいい」と言われました。そこで、近くで開催される合同シンポジウムに招待されてたことにFacebook上で気づきまして。

その参加団体についていろいろと調べて、全部見て、探し当てたのが今所属しているForaだったのです。そこで、卒業後、大学時代からインターンみたいな形で関わっていました。その後、正社員になりました。

「母の同級生の息子さんの友達」

古屋
自力で見つけたのですね!そもそも、その行動に移すきっかけになった企業を呼んだ討論プログラムのアイデアは、どこで思いついたのですか?

工藤
私は、中学までいじめを受けていて、人と話すのがとても苦手だったんです。目が全く見えなくなったこともあります。でも、高校に入って先生にもまわりの友人にも恵まれて。

外にも出ていく機会も貰いました。それが、学生討論会です。同級生がたくさんいて、外の自分の知らなかった価値観を知ることができることがめちゃくちゃ楽しかった。

そして、校内でも討論会を企画しました。学祭以外有志活動が禁止だったのですが、先生に承認を得るまで企画書を出し続けました。生徒会の先生が最後、「やってみたら」と言ってくれたときはうれしかったですね。

その学生討論会に行った元々のきっかけは、「母の同級生の息子さんの友達」からの紹介です。妹が「母の同級生の息子さん」に勉強を教えてもらっていて、私もそこで「勉強を教えて」と言ったら、その友達を紹介されたんです。

その人が校外の人を招いての討論会をやっていてそこから始まりました。いろんな人たちと触れ合って、「自分の世界は狭いんだ」みたいな気づきがあり。それが討論会を企画するようになったきっかけですね。

大元のきっかけを考えると、他人も他人ですね(笑)。でもとても感謝しています。

古屋
赤の他人ですね(笑)。その中で、うれしかったことや思い出深いことなど教えてください。

工藤
高校二年生のとき、弁論大会に出ました。東京私学の部の弁論大会で準優勝したんです。準優勝した人と優勝した人は、全国大会に行く話があったんですが、先生が教えてくれなかったので、準優勝して初めて知りました。

「受験生なのに」とその時はびっくりです。でも、高3の夏に広島で開催された全国大会に参加して、私は離婚した父を亡くした経験や戦後70年の話をお話しさせて頂きました。一生の思い出ですよね。

その後も、大学のときの授業でディベート論があったんですが全勝してそれもちょっとうれしかったです。自信も付きましたし、プレゼン力は鍛えられたかもですね。

Foraで大学生向けのファシリテーター講座を主催していますが、講師もやっていますから、今に生きています。

 

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